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花屋より枯野で夢見る河童かな

いい具合に色づいている柚子。柚子湯に入りたいけどかぶれる体質だった。昔バイトしていた店で柚子を使った料理を出していたが柚子は皮を使って香りを出すんだよね。中身は捨てたのかな?柚子ジュースとか。

今日は俳句の話題。俳句365ポストで中級の並だった。


宿仮俳句

それは嬉しいことなんだが中級の類想の選評を読んでデーターを徹底的に調べて類想にならない俳句を作るというのは、AI的だなと思った。まあこれは競技としての俳句と考えればいいのかな。その前に類想句に選ばれたのだけど、それは写生句でわりと実感としてすっーと出てきた句で自信があった。でも駄目だったので、今回は物語的な俳句にしようと思ったのだが、類想で選ばれても不思議はない。類想にしない為には二物衝動のシュールレアリスム的俳句がいいのだろうか?

それでトップを見てみたがさっぱりわからん。「がうがう」が「ごうごう」の文語でそういう知識がないとわからない。選評みて初めてわかるんだけど、そこなんだと思ってしまった。「ごうごう」燃えるはありきたりだけど「がうがう」燃えるなのか?でもこういうの調べるのは難しい。中原中也のオノマトペとか参考にすればいいのかな。

次回は「立冬」です。

あとNHKラジオの文芸選評俳句兼題「茸・きのこ」、短歌「重ねる」です。NHKは相性悪いから入選したことがないのだけれども。

十六夜杯の俳句の投票が今月まで。投票してこよう。投票終えた。こういうのは大事。データー集めじゃないけどどのような俳句が詠まれているか?自分のポイントは現代俳句だから現代語で書かれているもの優先。

芥川龍之介『枯野抄』を読む。芭蕉の俳句「枯野」は辞世の句ではなかった。芥川がそれを芭蕉の辞世の句とすることで死への憧れにも似た心情があったのだと思う。それが芭蕉の臨終時の弟子たちの「エゴイズム」に現れている。芭蕉の弟子でも「エゴイズム」から抜け出せなかった。

『枯野抄』は弟子が書いた『花屋日記』を元にしているのだがそれは偽書だった。「花屋」に対して「枯野」だよ。つまり屋内は花の咲き乱れんばかりの「エゴイズム」なのに対して芭蕉が求めたのは「旅」という「枯野」だった。見事過ぎる短編だな。漱石の臨終を描いたとされるが、すでに芥川の中に構想はあったことなんだと思う。

「うたの日」は芭蕉に引っ張られて失敗。

図書館に行ったらカード忘れて返却だけしてきた。すぐに家に戻って探したら皿の裏に張り付いていた。ないない探していて皿洗いして見つける。そういうこともあるもんだ。

読書。『詩活の死活 この時代に詩を語るということ』はもう少しで読み終わる。

もう俳句も短歌も約束ごとばかりだから詩を書こうかと思っている。韻文にこだわらなくてもいいんだが、散文はこうして書いているから新しいこと始めたいのだ。


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