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破れても棄てられないや冬日影

実際には太陽は逆方向なのだがスマホで撮ると太陽らしきものが入る。よくわからないのだがカッコいいのでそのまま残す。

 『東京マッハ』を読んで、長嶋有だったかな評価基準を「カッコよさ」に求めると言っていて、ほとんど私もそうなんだと思うのだが、この「カッコよさ」の基準も時代と共に変わるということ。例えばGパン(今の人は、ジーンズと言う)でも、破れたGパンがカッコいいというのは、ヒッピー世代を潜った人であって、そういうのを潜ってないと破れたジーンズのカッコよさは理解されない。
 文学も芸術も社会的に共感覚なものがいいのかというと後で評価される芸術家も多いのだった。そういう芸術家は自己本位とか教育を受けてないとか言われるのだが少なくも自由に自分のやりたいことをやっていた。そんなアウトサイダー・アートのことを想ったジョージアの画家の映画を見たので、それが興味深かった。

 それと『東京マッハ』みたいな本を読んで一般的な俳句の師匠がいるところで俳句を出すとけっちょんけちょんに言われる。例えば今月出した俳句。

天高く弓張月は「バーフバリ」

自分でも今読むとそれほど上手いとは思わなかったが、指摘されたのが季重なりと「外国の月」ですか?という反応。なんで見たまま詠んだ俳句にそういうことを言うのかな。「弓張月」が日本の武将の弓を題材にしたからなのか?でも元寇でモンゴルが攻めてきたときには遊牧民族の騎馬に乗りながら弓を撃つ者もいたはずであって、「バーフバリ」を感じたからと外国に月になるのがよくわからん。そういう約束なのか?「天高く」も季語とか言われてもぴんと来ないし、そもそも「弓張月」を見たのも11月だったわけで俳句の弓張月とは違う実景をみたまま詠んだのだった。

例えば東京マッハなんかは、「全員が全長52メートル」が評価を得るのだった。俳句としては韻律が感じられるのと52という句跨りが斬新でカッコいいということだった。そう句跨りはカッコいいと知ったのは最近なんだけど、なんか完璧に五七五に収まっている、これが正しい姿ですみたいな俳句よりも句跨りで、ちょっと人とは違う着崩し方をしているとカッコいいと。そういうことなんだと思う。そういう意味ではファッションと似ているのかな。

やっぱスーツにネクタイのような肩苦しいとこは無理なんだと思った。特に『東京ハッハ』のような本を読んだあとには。一般的な俳句をやろうとやろうとする人には進めませんけど。句会のイメージをこの本で持ってしまうと正しい句会に行くと違和感を覚える。それは自由なんだよな。参加するのもしないのも。そういう句会があってもいいとは思う。ただ誰でも来て下さいとアドバルーンを上げながら入るとそこの掟が見えないと反感を持ってしまうという。もっと大人になれとは思うんだけどもう無理だった。


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