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まだ三合目。避暑地の恋の情景。

『失われた時を求めて3 〈第2篇〉花咲く乙女たちのかげに 2 』マルセル プルースト , 井上 究一郎 (翻訳)(ちくま文庫)

二年後、祖母と出かけたノルマンディ海岸で、ゲルマント家の貴公子サン=ルーに会い、シャルリュス男爵に紹介される。第二部の終わりまで。

『失われた時を求めては』は芸術論でもある。それぞれの恋愛対象がそれぞれの芸術と対応しているように感じられます。オデットは音楽、ジルベルトは文学、アルベルチーヌは絵画。アルベルチーヌの引き出すのは画家のエルスチール。エルスチールのアトリエで試作の絵で海と空の境界がなくなるというのは、ランボーの詩『地獄の季節』の「永遠」を思い出させる。

「また見つかった!/何が?永遠が。/それは、海。溶け合うのは、/ 太陽。」

病気療養も兼ねて避暑地バルベックへの滞在。語り手の年齢がよくわからないのは、娼館へ出入りするけど祖母さんに介抱されるって、何歳なんだ!と普通なら思います。叔母の財産を相続して娼館に座椅子をプレゼントするなんてどういう身分なんだ!、と怒りたくなります。

祖母さんっ子ではあるが、祖母さんを介して上流貴族の夫人と知り合うことで過ぎ去りつつある貴族の時代を回顧するのです。ヴィルパリジ侯爵夫人は、祖母さんの幼馴染。友人となるサン・ルーの叔母でもある。そして、もう1人シャルリュス男爵はゲルマント侯爵の弟。このへんがゲルマント一族の重要人物。

シャルリュス男爵は、ゲイで有名なのだが、病気がちでベッドにいる語り手の部屋に来たときは、どうなることかと期待したが何もなかった。この関係とラストのアルベルチーヌの部屋へ忍び込む語り手が対になっている気がする。

サン・ルーは、『失われた時を求めて』で好感度ナンバー1の青年貴族。それでも最初の出会いは、青年貴族だからなのか偉ぶっているように感じた。この語り手は、悪印象から好印象のパターンが多い。サン・ルーも付き合いが深まるほど好青年になっていく。反対にブロックはいつでも悪友という感じなのだが。

サン=ルーの貴族性と対称的にブロックには悪意しか感じないが、人には善意と悪意の部分があり、どっちも個性なのだというようなことを言っている。語り手も両方の部分を持っている。その写し鏡(他者を見て我が身を振り返る)が二人を友人として選んだのかもしれない。ブロックの教えで娼館通いとか、恋愛の手引を得たようで、ここバルベックでの、「避暑地の恋」では失敗に終わる。

『失われた時を求めて』はロッククライミングのように引っかかりを見つけるのが大変で、1ページがなかなか読みきれない。絵画が出てくるとすぐネットで調べたくなってしまうのも気が散ってしまうことなのかもしれない。その絵画はわりと核心を突いているように思えたり。例えば、エルスチールが描いたとされる「ミス・サクリパン」のモデル探しとか。

実際の絵画だとカルパッチョ『聖女ウルスラ画伝』。この聖女ウルスラはキリスト教の処女で異教徒と婚姻するために巨大な船に乗って島に渡り、戻ってくるという神話に基づいて描かれたもので、聖女ウルスラらがアルベルチーヌの「花咲く乙女たち」に例えられている。ただエルスチールは古典絵画よりは印象派的な絵画を好むようで、彼が描く波止場のヨットは印象派を想像してしまう。

次々と開かれていく読書というのは、こういうことなんだろう。先に進めない読書。三巻を読み終わってもまだ三合目だった。

アルベルチーヌも最初は魅力的でもなかった。バルザックという避暑地の場所でのキャン・ギャルの1人みたいな(笑)。AKBの選抜メンバーのセンターポジション的な普通の女子と違わず特徴はないようだがファンになるとその頑張り具合とか、気配りとか良く見えてくる。それは、初恋のジルベルトとの思い出に重なるから、その埋め合わせに付き合いたいという思いもあるが、ジルベルトにない顔を見出す。

まあ語り手の周りには年寄り連中が多いので、花咲く乙女たちに心奪われるのはわかるが。乙女の母や叔母たちの面影から未来の姿を想像したりする語り手の視線は鑑賞者という感じだ。アルベルチーヌは孤児だという事実が物語性を増していく。

そして、語り手と同じホテルに泊まることになった病気がちのアルベルチーヌのベッドを訪ねて、キスしようとして呼び鈴を鳴らされる。まさに喜劇だった。アルベルチーヌとの恋が終わってからアルベルチーヌ讃歌が始まる。海の時間による変化をアルベルチーヌの相貌と重ねているのが印象的なラストでした。

関連書籍:『ランボウの手紙』




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