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曼荼羅を見たいものだ

『母性社会日本の病理』 河合隼雄(講談社+α文庫 – 1997)

必ずプラス・アルファがある河合隼雄の本! 「大人の精神」に成熟できない日本人の精神病理がくっきり映しだされる!! 心理療法をしていて、最近心理的な少年、心理的な老人がふえてきた、と著者はいう。本書は、対人恐怖症や登校拒否症がなぜ急増しているのか、中年クライシスに直面したときどうすればいいのか等、日本人に起こりがちな心の問題を説きながら、これからの日本人の生き方を探る格好の1冊。

ユングはフロイトの無意識の発見からフロイトと相対する思考を持つようになる。それはフロイトが無意識を超自我という意識的なものが克服して独り立ちする父性原理なのに対して、ユングは無意識を対決するものではなく受け入れる母性原理を見出した。

それを昔話で探ってみたのが「浦島太郎」の話。浦島は亀に連れられて龍宮城に行くのだが、そこで結婚せずに帰ってきてしまう。それは永遠に青年であることなのだが、地上に戻ると年老いている。亀は使者なのだが、亀姫とする説もあり、それは羽衣伝説と結びついて、天女となったとする。無意識が海にあるものとするのだ。

ギリシア神話でのオイディプスの帰還の話も海に出る話だが、こちらは航海(意志)の力で戻ってくる。自然を克服するのだ。それがフロイトのエディプス・コンプレックスの元となる。その前身であるヘルメースは、亀と出会って楽器にしてしまったという。ものとして利用するのだ。

その楽器で数々の修羅場を乗り越える話もあった。逆にユングでは呑み込まれる話を引っ張ってくる。ウロボロスの神話。それは自我が確立する前のエジプト神話を起源に持つという。自然神という多神教的思考。それを克服していくのが一神教の人神だ(人じゃないかもしれないけどそんなような西洋哲学世界)。

日本の自然神。例えば山の神は、山姥として人を飲み込んでしまう。女性原理として、子と母の一体感。永遠に一体とする考えは、心中事件とか子殺しの罪のなさに現れているのか?子を飲み込む母のイメージ。そこから自立できない自我を見出す。それはフロイトの思考だと乗り越えなければならないものだが、ユングはそこに癒やしの曼荼羅を見る。アニマ・アニムスの無意識の世界で依存していくものだが、そこに救いを見出す。

漱石が近代自我を問題として、西欧の個人主義に対して東洋の則天去私を見出した。それは場の論理。西田幾多郎哲学。西洋哲学は主客分離と捉えて、東洋では主客が非分離と捉える。このへんの精神分析は木村敏『時間と自己』に書かれていた。もの的時間とこと的時間。

自我と自己。昔関西の友達が「自分」というのを二人称で使っていて、一人称で使っている自分と混乱することがあった。その笑いの中で、東京は冷たいとか話したような気がする。自分の中に他人は忍ばせたくないものだ。それは核家族化からくる自立心だったのか?だからフロイトの精神分析は受け入れられる気がしたものだ。それが「アンチ・オディプス」だとしても。

母が亡くなって母を想うことが多くなっていた。父が亡くなった時はそんなことはなかったのに。その影響なのか。中年クライシスなのか?だけどまだ曼荼羅は見てないので大丈夫?

とりとめのない感想になった。



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