シン・短歌レッスン146
百人一首
自分用の「百人一首」を作ろうと思ったが和歌だけでは好きな歌が集まらず短歌も含めればお茶の子さいさいと思っていたが百首という数は初心者にはけっこうな数だった。
ただ権威が決める「百人一首」よりも自分で作る「百人一首」の方が短歌創作の上でも方向性が定まるし、そうしたものをみなが作るべきだと思うのだ。そこから、その人の指向性が生まれると思う。
この本は近現代短歌の百首を短歌界の4人の権威による「百人一首」ということなんだが(人選はいろいろあるだろうが、自分的にはベストかと思う)、あの有名な歌かという感じの近代短歌や面白いと思う現代短歌があった。ただ一番最初が明治天皇の歌で驚いた。明治天皇は、生涯9万3千首詠んだとか。一番が大本教の教祖である出口王仁三郎で12万首。そういう世界なんだと思った(信仰のような世界?)。誰もが自分の「百人一首」を持つべきだ。
31 瓶にさす藤の花ぶだみじかければたたみの上にとどかざりけり 正岡子規
正岡子規は近代短歌の改革者で「写生」という手法を唱えた人である。藤の花を病状の子規の視線から詠んだ歌で子規の特異さが出ていると思った。ここに選ばれたのはもっと一般的な「いちはつの花咲きいでて我が目には今年ばかりの春行かんとす 正岡子規」な歌だが、これも晩年の歌で子規だけの今年の春があるという「いちはつの花」はあやめで今年一番に咲く花という。
32 ああ皐月 仏蘭西の野は火の色 君も雛罌粟(コクリコ) われも雛罌粟 与謝野晶子
与謝野晶子はこの口承性の短歌が好きだった。この本に上がったのは「髪五尺ときなば水にやはらかき少女(をとめ)ごころは秘めて放たじ 与謝野晶子」だが、官能美ということだが、むしろ晶子はロマンチックな短歌を詠む人だと思う。
33 葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり 釈迢空
釈迢空は独自の短歌を模索した人でこの「葛の花」の歌も彼ならではの色が滲んでいると思う。それは既成の短歌に飽き足らず、句読点を入れることによって彼独自のリズムを示したことだ。もっとも釈迢空の指定いたリズムではなく定型で詠むのでいいという。ただそのこだわりが句跨りとか初句七音とか新しい短歌の流れを生んでいったのだ。
34 この空にいかなる太陽のかがやかばわが眼にひらく花々ならむ 明石海人
ハンセン病での隔離された中での境涯短歌だろうか?この「花」は明石海人にしか見えないイメージ(象徴)の花(太陽)なのだ。正岡子規の写生に通じる。
35 ラルースのことばを愛す〝わたくしはあらゆる風に載りて種蒔く〟 篠弘
篠弘は『現代短歌史〈2〉―前衛短歌の時代』でお世話になった。短歌史という過去を振り返ることで歌人の表現の苦労が見えてくる。
ラールスは百科事典を編纂した人。彼の業績によって「ことば」をイメージでき、愛おしい世界を構築する。そんな種まく人になりたいという感情。「百科事典」という権威を感じるが、ラールスという一人の人間の種まきという地道な仕事に敬意を感じるのかもしれない。「風に載りて」が詩的。
36 百粒の黒蟻をたたく雨を見ぬ暴力がまだうつくしかりし日に 浜田至
この歌に惹かれるのは斉藤史の2.26事件を詠った「暴力のかくうつくしき世に住みて ひねもすうたふ我が子守うた」と対になっているかと思う。斉藤史はすでに選んだので、今回は選ばなかったのだが、もっとも好きな歌人の一人だった。浜田至の歌は学生運動時の歌をイメージする。
37 日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギンの飼育係も 塚本邦雄
塚本邦雄の権威性に反発した。しかし塚本もそういう権威に反発したのだ。そのアンビバレントな短歌。
38 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや 寺山修司
寺山修司の短歌が入口だった。青春短歌は決定的な短歌のイメージを植え付けた。だからあまり伝統短歌になびかないのかもしれない。すでに祖国は失われていた。
39 血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとり愛うつくしくする 池上大作
全共闘世代のロマンチシズム。ほとんど今では虚構なのかと思えるほどに現実感は希薄なのだ。だから「愛」とか「美しい」などと言えてしまう。
40 子が忘れゆきしピストル夜ふかきテーブルの上に母を狙えり 中条ふみ子
中条ふみ子は結社よりもジャーナリズムに作られた歌人である。だから寺山修司の虚構性とも繋がるというか、この二人を世に出したのが『黒衣の短歌史』の 中井英夫だった。「短歌研究」の編集者。そういう雑誌があって結社以外の人も短歌に触れるようになった。いい悪い両面なのだが。
NHK短歌 2024年 08 月号
久々に「NHK短歌 2024年 08 月号」のテキストを購入したのでレッスンに組み込むことにする。「NHK短歌」の予習でもあった。「テーマ「こわいもの」 大森静佳」(18日放送)。
年と共に「こわいもの」が減っていく。これは感性の減退なのかもしれない。「こわいもの」がない状態は危機感の欠如だった。ここに上がっている短歌があまり響いてこないのもそういうことかもしれない。
それは現代人の姿ではないのか?「こわいもの」があるのは幼児とか昔の迷信を信じている人なのかもしれない。
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