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シン・短歌レッス144



「百人一首」

思ったより「百人一首」で苦労している。当初和歌限定にしたいと思ったが無理なので今日から短歌も入れることに。和歌で紫式部ばっかになっても。


21 東海の小島の磯の白砂に
 われ泣きぬれて
 蟹とたはむる 石川啄木

石川啄木は調べれば調べるほど凄い歌人だったのだと再認識しましました。まず短歌だか短詩だかわからない三行短歌も七五調のリズムを変えるためだたとか。


22 明日あると信じて来たる屋上に旗となるまでたちつくすべし 道浦母都子

全共闘世代の歌ですね。これにうるっと来ちゃう人は、戦意高揚歌にもうるっと来ちゃうのでしょうね。短歌はそういう叙情性に訴えるところがある。だから、「奴隷の旋律」(同調圧力的な)と戦後問題になったのでした。右翼的な歌ばかりではないのです。

23 立て膝をゆっくり割ってくちづけるあなたをいつか産んだ気がする 林あまり

性行為を女性の側から詠う。林あまりは女性の身体的表現をわが身に即して詠ったものだが、この歌は「産んだ」という相手(男)にも問いかける形で相聞歌とも言える。フェミニズム表現か?

24 しかたなく洗面器に水を張りている今日もむごたらしき晴天なれば 花山多佳子

私の日常を独泳として詠う。ミーイズムというものの走りだろうか?ちょっと少女漫画のヒロイン的ではある。そこに共感性を求めたのか?

25 陽のあたる壁にもたれて座りおり平行線の吾(あ)と君の足 俵万智

やはり、俵万智は上手い読み手だと思う。「吾」と「君」が現代短歌で存在する「君」は、「吾」も「君」も古語としてではなく、現在の言葉として使われる。むろん、それは「短歌」という一部の内輪の共感性を呼ぶのだが、古い世代は間違いだという。その平行線は交わることがないのか?


26 アフリカに吸ひつきてゐし蛸の足噛みをりつひにアフリカを知らず 川野里子

NHK短歌での「省略」という方法の中で例題として出した短歌。アフリカでの蛸の繊細な情景が省かれ、日本の食卓の情景から連想するように促す。短歌をやり慣れた人はそういうことを読み取れるようになる。その読み取りという部分が短歌的感性ということなのだろうか?

27 夏はつる扇と秋の白露といづれかまづはおかむとすらむ 壬生忠岑

突然和歌を持って来たのは、この歌も季節の変わり目という日本人の共通の心情に訴えるからだという。それは季節感を見出すことなのか?「夏はつる扇」と「秋の白露」という情景。

28 つくつくぼふし三面鏡の三面の
     おくがに啼きてちひさきひかり 葛原妙子

季語的な用法から現在性を導く。葛原妙子はキリスト教的な西欧文学の憧れがある。

29 見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕ぐれ 定家

「三夕(さんせき)の歌」。この歌は打ち消していく言葉で日本の叙情性を読んで、この歌以降日本人の秋のイメージとなった。他の二首もそういう感じだったのか?

さびしさはその色としもなかりけり まき立つ山の秋の夕暮 寂蓮
心なき身にもあはれは知られけり しぎたつ澤の秋の夕ぐれ 西行

「秋の夕暮」の寂漠感は日本人特有のものでなく、例えば『枕草子』に「秋の夕暮」は季節の素晴らしい情景に喩えられているが、それは貴族生活の中で見る「夕暮」であり、寂蓮らの僧侶の「夕暮」とは意味が違ってくる。女房歌から坊主歌ということなのか?

30 チアノーゼ色の夕べの山つつじ 水底に父祖の座敷牢ある 斉藤史

斉藤史は、好きな歌人の一人だが、中央と離れたところで孤独さを強烈に詠む。

NHK短歌

俵万智さん出演、大河ドラマ「光る君へ」とのコラボで注目の第2週。ドラマの衣装デザイナー、日本画家の諌山恵実さんがゲスト。テーマは「色」。司会はヒコロヒーさん。

「色」。モダニズムが「白」をモチーフとするような、現在は特定の色ってあるのだろうか?むしろ色を出せない混沌という状態なのかもしれない。

肌色と
禁じられしと
ある人は
ファンデーションを
重ね塗るなり

灰色がタブーの喪の色だとするのなら、リクルートスーツとはまさに喪の時代の色なのか?色を出さないということだという。

はみ出してしまわぬように面接は黒いスーツで縁取りをする

<題・テーマ>川野里子さん「触れる」、俵万智さん「音」(テーマ)
~8月19日(月) 午後1時 締め切り~
<題・テーマ>大森静佳さん「迷い」(テーマ)、枡野浩一さん「いただきます/ごちそうさま」(テーマ)
~9月2日(月) 午後1時 締め切り~

短歌研究

作品季評 第130回・後半=作品季評 第130回・後半=穂村弘(コーディネーター)/高良真実/青松輝(コーディネーター)/高良真実/青松輝

コーディネーターってなんなん?調整役ということのようだ。一応、一番年寄りだからか?

内山晶太「天井画」

穂村弘が秀歌性ということで、歌人が上手いと思う歌の的があり(現在では高野公彦、吉川宏志だという。内山晶太もそういう部類なのかもしれない)、そこを外れないようにするのが秀歌であり、塚本邦雄とかはそれに反する歌を作っていたのだが、葛原妙子とかの秀歌は超えられなかったと。そうなのかな?

そういう秀歌性の内輪が短歌界のあり、同時代性の内輪とは違うという。

吉田恭大「否定形と提携」

こっちは同時代性というようなネットミームの中で形作られていく言葉を巡って「否定」しながら「提携」していくということなのか?短歌の枠外にある(詞書のような)の言葉とか。

郡司和斗歌集『遠い感』

栞の話が面白かった。役割分担があり、川野里子は「かりん」の先輩として、穂村弘は短歌研究新人賞の選者として、瀬口真司は同時代歌人として。つまり瀬口真司は同世代の内輪での繋がりがあるのだが、川野里子はそこは通じていない。むしろ秀歌性というところで「かりん」の先輩として詠む。穂村弘はその調整役というところか?

いーじゃんいーじゃん 春だけ電車が止まる駅 すげーじゃん 梅満開の庭

は『仮面ライダー電王』の主題歌の本歌取りなんだが、本歌取りは誰も知っている有名歌からそれ以上の歌を作るということなんだが、これはけっこうそれに近いのかもしれないが内輪という枠内を超えている。「遠い感」というタイトルも面白い。



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