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シン・短歌レッス143


「百人一首」

前回は桜三首で終わってしまった。春は桜以外にも色々花はあるのに春と言えば桜だった。それは『古今集』以後のことで『万葉集』では梅も多く読まれていたという。令和の言われにもなった「梅花の宴」という梅の歌会もあった。

4 わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れくるかも 大伴旅人

大伴旅人と言えば山上憶良だった。山上憶良といえば「貧窮問答歌」であるが、それに添えられた短歌。

5 世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば 山上憶良

『万葉集』では忘れていはいけない柿本人麻呂は「歌聖」とも言われる存在だが夜の長い序詞の「百人一首」にも入ったこの歌が面白い。

6 あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む 柿本人麻呂

山部赤人は柿本人麻呂とも並び称されるが人麻呂の山に対して海の赤人というらしい。

7 田子の浦にうちいでてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ 山部赤人

「降りつつ」と現在形にしたのが『古今集』や『百人一首』で『万葉集』では「降りける」で過去系なのは、実際に降る様子は見てない(雪が降っていたらそもそも富士は見えない)ので写実としては正しくないのだが、「降りつつ」と心の目で見たのだろうという説。どっちが好みかで分かれるのかな。他にも万葉集では、ちょっと違う。これが万葉調ということだろうか?

田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りける 山辺赤人

8 うつそみの人にある我や明日よりは二上山を弟(いろせ)と我が見む 大伯皇女

大伯皇女の大津皇子の挽歌だが、この一連の挽歌で『万葉集』にハマってしまった。当時の権力者に対する謀反(でっち上げ)だという。姉的な人には弱いんだよな。

9 我が心焼くも我なりはしきやし君に恋ふるも我が心から  詠み人知らず

呪いの長歌に付けられた反歌なのだが、圧倒的に長歌がいいのは『万葉集』は短歌よりも長歌とか物語的な世界なのかもしれない。


俵万智『愛する源氏物語』

薫のはじまり

いきなり飛んいま、橋本治『窯変 源氏物語12』を読んでいるので飛ばしてしまう。薫が大君との恋で悩むシーンだった。八宮は薫の伯父なのだが、俗世捨て人というような、出家も出来ずに仏道に専念している貴族なんだが、その中途半端さが薫には娘たちを頼むとしておきながら、娘たちは男に頼るな自立していけというのだった。かなり勝手な爺だ。薫はもともとそんな爺の生き方に共感しているので、仏道の道を極めたいのだった。

そもそも薫の解脱願望は出生の秘密にあった。光源氏の息子ではなく、女三宮が柏木との欲望(浮気)で出来た子供だったのだ。

おぼつかな誰に問はましいかにしてはじめもはても知らぬわが身ぞ 薫

取り残される子というのは八宮の姫に共通していることで、そうした俗世の無情さを八宮は嘆くのだった。

うち棄ててつがひさりにし水鳥のかりのこの世にたちおくれけん 八宮
いかでかく巣立ちけるぞと思ふにもうき鳥のちぎりをそ知る   大君
泣く泣くもはねうち着する君なくはわれぞ巣守りになるべかりけり 中君

中君の「巣守りになるべかりけり」は俵万智訳では「私は卵のままいたい」となっている。つまり水鳥一家にやがて男どもが狩りにくるだろうと不条理さの中で八宮はあの世に渡ろうとしている。残された姉はそれが水鳥の運命だと悟っている。妹は卵時代のままいたいという甘え。そんな中に薫が飛び込んでくるのであった。八宮一家に同情しながら(それは八宮が光源氏のせいで山奥まで追い詰められたというのもある)。

ふたつのタイプ

そこへ八宮が薫に娘を頼む(当時は結婚を意味した)と言うものだから、それは男の欲望(姫との結婚)だろう、ためされているのか?というダブルバインド状態になる薫だった。それは仏教でも禅問答の解不能の答えを求めるものがあるから、それかなと薫は思うのだが、どうもそれも八宮の欲望であり、薫も欲望には勝てないのだった。

結局薫は人間の欲望に翻弄されることになる。また薫には匂宮という仕えなければいけない主人もいたのだ。これも混乱の元で、大君を諦めきれない薫は中君を匂宮に捧げれば、自分は大君とも上手く行って八宮の言葉を叶えたことになるのではないかと。

しかし姉妹には男との結婚を父から禁じられているのだ。ここにも父の言葉の鎖としてのバインドが存在するから、二人の娘は悩むのだが、女としての幸せは薫のような男の人の後ろ盾を得ることではないか(薫に説得される弁の女房は、結婚が本当の女の幸せだと大君を唆す)と大君は身代わりとして中君を捧げる。

「ウェイリー版」で中君が「コゼリ」となっているのは捧げる時の入れ物(籠)の意味で、当時の女性の立場を表している。大君の「アゲマキ」はそのときの祝紐(飾り紐)の意味があるのだ。つまり二人とも『源氏物語』の中では捧げ物というような意味なのだが、大君は父の遺言は絶対だと思っているから、自分だけはそれが不合理だと思っても守り通そうとする。そして中君の女の幸せを考えるのだった。この複雑な関係が紐のようにこんがらがり一つの物語として形作るので「総角」という帖があるのだった。

大君が複雑なのはさらにお付きの女房たちの噂を耳にして、中君が匂宮と結婚するのはいかず後家になるよりいいという(自分たちも宇治のような山住まいではなく、華やかな都住まいになるのだから)噂を自身のこととして受け止めて、老いていく婆婆と噂されていると思い込んで悲観していくのだった。複雑すぎる話だがそういうことだった。欲望(愛)と解脱(自立)の仏教観の話なのだ。

雪ふかき山のかけ橋君ならでまたふみかようふあとを見ぬかな 大君
つららととぢ駒ふみしだく山川をしるべしがてらまづやわたらむ 薫

「かけ橋」は宇治川に架かる橋で、大君は自身のこともかけている。薫は匂宮の案内役として氷の山川を渡ろうとしている決意の歌だった。

つてに見し宿の桜をこの春はかすみへだてず折てかざさむ 匂宮
いづくとかたづねて折らむ墨染にかすみこめたる宿の桜を 中君

匂宮は宇治の宿の桜を手折ろうとしているのだ。それはまだ喪中だから遠慮願いたいという中君の返事なのだ。

添い寝の効果

添い寝の効果とは「寝てしまえば俺のものだ」の逆の意味なんだろうか?大君は薫と中君をくっつけてしまえば解決できるものとし、薫は中君を匂宮とくっつけてしまえば解決できると思っていた。つまり二人共中君の気持ちも考えずに勝手にそれが幸福だと考えていたのだ。

薫は直接行動として、大君との「添い寝」を狙う。しかし、それは失敗に終わる

山里のあはれ知らるる声々にとりあつめたる朝ぼらかけかな 薫
鳥の音もきこえぬ山と思ひしを世のうきことは尋ね来にけり 大君

俵万智は大君の「うきこと」に下心があると読む。しかし、大君は中君を薫の元へ贈ろうとしていたのだ。大君の心情の変化があるという。

薫の大作戦

ここで俵万智は薫の煮えきらない態度に憤慨するのだが、そもそも解脱したい薫ならば女の欲望は魔女の誘いなのだ。キリスト教的な態度かもしれないが薫の出自を考えると当然のことではないのか?自己否定としての生なのだから。むしろそうした薫を目の前にして、なんで誘ってこないという万智先生こそが魔女の言葉を吐いているのだった。つまり、万智先生は待っている女も欲望を隠しているのだから、添い寝した時点で態度は決まっているということなのか?いや部屋に入れた時からだろうか?けれどこれは弁の差し金で鍵を外していたことだった。つまりここでは弁を使った強姦未遂ということになりはしないか?

おなじ枝を分きてそめる山姫にいづれか深き色とどはばや 薫
山姫の染むる心は分かねどもうつろふ方や深きなるらん  大君

そして妹を差し出した後の二人の和歌で、俵万智は妹思いの姉だと言っている。それは噂する女房たちと一緒なのである。つまりここでは女房は世間なのだ。部外者もいいところで、勝手な噂をしているのだった。それは大君の作戦でもあったのだが、大君を思慮深く妹思いというのはどうだろうか?それは弁をも欺く大君の作戦だったのだ。中君の立場なんて薫も大君も考えてはいない。そこに各々の欲望が渦巻くのだから。

NHK短歌

枡野浩一さんの「あなたへの手紙 かなたへの手紙」。今回は「おかえり/ただいま」。人気の「改悪添削」に注目!ゲストは小説家の町屋良平さん。司会は尾崎世界観さん。

なんかもう読まれる短歌が決まっているようで、気持ち悪さを感じるのだが、枡野浩一が好きじゃないんだろうな?

「おかえり/ ただいま」って『台風クラブ』の一人野球部員の演技を思い出す。

<題・テーマ>大森静佳さん「鳥」(テーマ)、枡野浩一さん「だいすき/だいきらい」(テーマ)
~8月5日(月) 午後1時 締め切り~

<題・テーマ>川野里子さん「触れる」、俵万智さん「音」(テーマ)
~8月19日(月) 午後1時 締め切り~ 

町屋良平がゲストって、尾崎世界観の芥川賞を予想していたのかな。尾崎世界観の髪の色がへんなのは、そういう照れもあるんだろうか?

        


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