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茱萸を知らずに食べたら

『空中の茱萸』荒川洋治

かつて「若い現代詩の暗喩の意味を変えた」という吉本隆明氏の歴史的讃辞をほしいままにした詩人は、いま「修辞的現在」から脱却して、「詩の現在」そのものを根本から改訂しつつある。高見順賞『渡世』以来3年、全身を投入した16の詩篇が、詩の「社会復帰」を見事に現実と化す。
目次
完成交響曲
眼帯
石頭
冬の紅葉
新しい過去
白い胸のイモ
青い畳
私だけの男
文庫
欲望の感激〔ほか〕

出版社情報・目次

詩というよりエッセイ的な散文詩なのか?韻文もあるのか。これが今の現代詩の形なんだろう。

現代詩のわからなさを伝えた上で楽しみ方も伝えている。

例えば幼い頃「茱萸」を食べたことがある。それは「ズミ」かもしれない。幼少の頃に食べた「赤い甘い実」を「茱萸」と知ったのは後のことだ。知らない実なのに食べてみた。周りの子供達が食べていたからか、美味しいと進められたからか?わからないけどつまんで食べた。「ズミ」かも知れなかったと今では思う。

現代詩のわからなさ、例えば専門書の固有名詞がわからないとお手上げになるみたいな。ここにもわからない人物名が頻発する。知っている人物も。しかし、日本語でわかるところ、文体、語尾とか言い回しで、その専門書の癖がわかるという。その本は美味しいのか不味いのか?

そういう本ならば本書は美味しいぶるいだった。

「浜田しずこ」の詩のわからなさと知的障害者であるおばさんの思い出が重なる。その叔父さんは満州で中国人を虐殺した写真が机の中から出てきたという。そういう人のわからなさと接していながら暮らしているのだと荒川洋治の現代詩を読むとわからなさも当たり前のことだった。


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