茱萸を知らずに食べたら
『空中の茱萸』荒川洋治
詩というよりエッセイ的な散文詩なのか?韻文もあるのか。これが今の現代詩の形なんだろう。
現代詩のわからなさを伝えた上で楽しみ方も伝えている。
例えば幼い頃「茱萸」を食べたことがある。それは「ズミ」かもしれない。幼少の頃に食べた「赤い甘い実」を「茱萸」と知ったのは後のことだ。知らない実なのに食べてみた。周りの子供達が食べていたからか、美味しいと進められたからか?わからないけどつまんで食べた。「ズミ」かも知れなかったと今では思う。
現代詩のわからなさ、例えば専門書の固有名詞がわからないとお手上げになるみたいな。ここにもわからない人物名が頻発する。知っている人物も。しかし、日本語でわかるところ、文体、語尾とか言い回しで、その専門書の癖がわかるという。その本は美味しいのか不味いのか?
そういう本ならば本書は美味しいぶるいだった。
「浜田しずこ」の詩のわからなさと知的障害者であるおばさんの思い出が重なる。その叔父さんは満州で中国人を虐殺した写真が机の中から出てきたという。そういう人のわからなさと接していながら暮らしているのだと荒川洋治の現代詩を読むとわからなさも当たり前のことだった。
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