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長文注意!(詩の引用があるから)

『近現代詩歌』池澤 夏樹 (詩), 穂村 弘 (短歌), 小澤 實 (俳句) (池澤夏樹=個人編集 日本文学全集29)

近代以降、変革と共に多様な形で展開してきた詩歌の世界。明治から平成までの詩を池澤夏樹、短歌を穂村弘、俳句を小澤實が精選、その魅力と真髄を紹介する。

詩はいつでもどこでも文学の中心。詩や短歌や俳句はむずかしいという先入観を一掃するセレクションを実現しよう。(池澤夏樹)

手っ取り早く日本の詩を知りたいのなら文学全集だろう?『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集29「近現代詩歌」は、近代詩から谷川俊太郎らの現代詩(叙事詩的試みも)、と日本の伝統詩である短歌と俳句も。この中から好きな詩人を見つけて個人詩集を紐解いていくのが無難か?

池澤夏樹選の詩は、抒情詩から叙事詩的な流れを見ているのか?

ただ、けしからんことに、宮沢賢治が載ってない。まあ、個人選集だから好き嫌いはあるだろうから、それは仕方がない(短歌の方で載っていたのでそういうのもあるのかもしれない)。金子みすゞや相田みつや最近話題の詩人がないと騒いでも仕方がない。詩の選集は、誰がやっても難しいと思う。それではかいつまんで。

短歌の穂村弘は、正岡子規の短歌を一人称「吾」を中心とする視点を近代短歌の起点とした。その変遷を見ていくと、近代の「吾」から女性歌人たちの「われ」。戦争短歌や戦後のプロレタリア短歌、そして60年代の安保闘争世代から「吾」を解体していく運動へ。そして、伝統回帰。池澤夏樹(1945年)よりも以前に生まれた近現代歌人という縛りがあったという。それがないと50人では収まらない。

小澤實の俳句はアニミズムの世界。短歌でいうところの吾を自然の中に同化させていく。漱石の則天去私かな。天皇制と容易に結び付けない為にもアニミズムの方向性かと。もともと神道はアニミズムの世界だった。

詩 池澤夏樹選


北原白秋 「邪宗門秘曲」(1908)

われ思ふ、末世の邪宗、切支丹でうすの魔法。
黒船の加比丹(かひたん)を、紅毛の不可思議を、
色赤きびいどろを、匂鋭(におひと)きあんじゃべいいる、
南蛮の桟留縞を、はた、阿刺吉(あらきち)、珍酡(ちんた)の酒を

近代詩の夜明け。その以前に上田敏の翻訳詩『海潮音』(1905年)があるから、『海潮音』の影響を受けたと思うが象徴詩のオリジナルな詩では白秋のこの詩の斬新さがある。タイトルが「邪宗門」なのである。最初の詩が『謀叛』である。その後に『おかる勘平』が風俗紊乱で発禁処分になったのだ。反逆の詩人の北原白秋の転向が『思い出』である。

紺屋のおろく

にくいあん畜生は紺屋のおろく
猫を擁へて夕日の浜を
知らぬ顔してしやなしやなと。

にくいあん畜生は筑前しぼり、
華奢な指さき濃青に染めて、
金の指輪もちらちらと。

北原白秋が後に抒情詩に傾いて行ったのは、『おかる勘平』の発禁処分や姦通罪での逮捕があるのだと思う。それだけ初期の白秋は反逆の詩人だった。その後の童謡の白秋のイメージは、姦通罪のイメージを拭い去るためのように思える。

萩原朔太郎 『月に吠える』での序に白秋の転向詩人としての言葉があるように思える。

萩原朔太郎の象徴詩の精神は、西脇順三郎に受け継がれていく。しかし、時代の趨勢は抒情詩にあったのだ。島崎藤村「初恋」や高村光太郎「樹下の二人」は、その後の流行歌を感じさせる。高村光太郎の『智恵子抄』「レモン哀歌」はさだまさしの歌になった。



堀口大學 「砂の枕/海の風景/魂よ/昔/初夜」は象徴詩を受け継ぐよりも抒情詩に傾いていく。例えば、中原中也や大岡昇平が認めた富永太郎は、この全集では取り上げられていない。フランス象徴派の難解な部分を受け継いでいたのが、西脇順三郎や富永太郎だと思うのだが、彼らの詩は難解すぎた。

日本の詩が男女間のラブソングになっていくのも、佐藤春夫 「秋刀魚の歌」や金子光晴 「ニッパ椰子の唄/洗面器」もそう変わらないと思うのは抒情詩だからか。ただ金子光晴の「洗面器」はラジオで伊藤比呂美の朗読で聞いたのが良い出会いだった。こういう詩との出会いが大切。

北村初雄「日輪」は叙事詩的な面影がある。ただそれ以後の三好達治 「春の岬/乳母車/甃のうへ」も中原中也「帰郷/汚れつちまつた悲しみに……/修羅街輓歌 IIII」も抒情詩の流れ。中でも中原中也の存在の大きさは、詩というものをイメージづけた。そのイメージが後のミュージシャンたちによっても歌われていくのだ。

中野重治 「わかれ/新聞にのつた写真/雨の降る品川駅」はプロレタリア詩。今ひとつ歌われなかったのは、日本が資本主義経済大国になっていく過程と重なるからだろうか?

中村真一郎 「頌歌 VIII」福永武彦「詩法」原條あき子「娼婦 2」は実験的な「マチネ・ポエティーク」というグループの「音韻定型詩」の試みだというが、日本ではもう一つ理解されなかった。そんな詩より、石垣りん「くらし」だろうな。

くらし

食わずには生きていけない。
メシを
野菜を
肉を
空気を
光を
水を
親を
きょうだいを
師を
金もこころも
食わずには生きてこれなかった。
ふくれた腹をかかえ
口をぬぐえば台所に散らばっている
にんじんのしっぽ
鳥の骨
父のはらわた
四十の日暮れ
わたしの目にはじめてあふれる獣の涙。

(『近現代詩歌』「池澤夏樹=個人編集 日本文学全集29」より石垣りん「くらし」)


日本の女性詩人の活躍は、戦後詩でも茨木のり子「わたしが一番きれいだったとき」が抜きん出ている。

思想家や詩人が溢れていた60年代。今でも書き続け読まれるのは谷川俊太郎だけのような気がする。まあ一部詩の世界では、吉増剛造みたいな人もいるが、一般人には難しい。詩からマルチメディアの世界へと行った寺山修司はやっぱ偉大だったと思う。なんで寺山修司がないのだろう。まあ、大衆芸能だからなのか?



谷川俊太郎 「タラマイカ偽書残闕」高橋睦郎 「姉の島 宗像神話による家族史の試み」入沢康夫「わが出雲・わが鎮魂」はそれぞれ叙事詩の試みだが、谷川俊太郎の詩が一番理解しやすく面白いと思う。

他の二人は、難解なT.S.エリオット『荒地』の古典象徴詩に通じるが、文学オタク化しか読まんだろう。詩の形として、文学からミュージックへというのは当然の流れだったように感じる。しかし詩の世界がまったく無くなったのではなく、新たにヒップホップなどで見直されているとは思う。


【短歌 穂村弘 選】

真砂なす数なき星の其中に吾に向かひて光る星あり 正岡子規

無数の星(言葉)の中からただ一つの「吾」を見つける。それを固定して自然を詠むという。近代短歌の起点となった一人称「われ」の誕生。

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なるひとひらの雲 佐佐木信綱

「の」の助詞で上っていくリズム。その上の雲。真似したくなる。

われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子ああもだえの子 与謝野鉄幹

子規の中心のある「われ」ではなく、さまざまに分裂していく7つの「われ」が「もだえの子」に収れんされていく。

東京に地平線を見ぬここにして思ひかけねば見つつ驚く 窪田空穂

関東大震災の直後の短歌だという。

ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君の雛罌粟(コクリコ)われも雛罌粟(コクリコ) 与謝野晶子

雛罌粟(コクリコ)がポイント。フランス語でひなげしだった。虞美人草。皐月も火の色なのが時空を飛んで、助走しているという。

後世(ごせ)は猶今生だにも願わざるわがふところにさくら来てちる 山川登美子

「さくら」絶唱。ナルシズム的だが願わざると断念からの「さくら」への思い。

めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり 斎藤茂吉

茂吉の世界の「われ」は作者本人に限定されたものではなく世界との関係性を示している。剃刀研人と医者でメスを持つ茂吉との関係性か?

向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ 前田夕暮

ゴッホの「向日葵」を観ての鑑賞短歌。写生された絵を写生する写生と言えるのか?ゴッホ気分でということだろうか?

君かへす朝の敷石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ 北原白秋

白秋の叙情短歌だった。さくさくの雪と(赤い)林檎が君と吾の中で触れ合う。「視覚」「触覚」「味覚」「臭覚」「聴覚」が研ぎ澄まされた短歌だという。「林檎」は古くから恋愛のアイテム。

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ 若山牧水

若山牧水の有名な名歌(詩)。高校時代の物理の先生が何気に口ずさんでいたのを思い出す。白衣着た科学室の孤高な老教師。何かを訴えたかったんだろうな?

いたく錆びしピストル出(い)でぬ
砂山の
砂を指もて堀りてありしに  石川啄木

解説で石原裕次郎のヒット曲「錆びたナイフ」は啄木の歌からの本歌取りだという。なるほど。


名も知らぬ小鳥来たりて歌ふ時われもまだ見ぬ人の恋しき 三ヶ島葭子

女性歌人の薄幸さは、短歌と共にその生涯にも現れてくる。夫の愛人問題、自身の不倫、結社からの破門など。

おもひでと云えば鏡花の文にある九つ谺なつかしきかな 吉井勇

読書感想文も短歌になる?

ながき夜の ねむりの後も、 なほ夜なる 月おし照れし。河原菅原 釈迢空

1字空けや句読点は、詠むときのリズムを示しているのは、『口語 万葉集』の時からの一貫とした姿勢だった。つまり詠むことによって、言霊を呼び覚ます。異能者の歌人である釈迢空は、その名前からも伺われる。

桜ばないのち一(いつ)ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてのわが眺めたり 岡本かの子

桜を主題にした短歌も、それぞれの歌人の個性が出ていて面白いので、読み比べてみると面白い。さすが、かの子は岡本太郎の母ですな。桜を眺めるのも命がけ(138首詠んだのだという)。

ツチヤクンクウフクと鳴きし山鳩はこぞのこと今はこゑ遠し 
土屋文明

このとぼけた感じも好きです。

雲はいまネオ夏型にひかりして桐の花桐の花やまひ癒えたり  宮沢賢治

宇宙的なヴィジョンと癒やしの短歌。

シルレア紀の地層は杳(とお)きそのかみを海の蠍の我も棲みけむ 明石海人

明石海人は癩病患者で隔離を余儀なくされ瀬戸内海の療養所で過ごしたという。現実の中に幻想を見出すことで自ら輝いていた歌人だという。彼の歌集での序の言葉、「深海に生きる魚族のように、自らが燃えなければ何処にも光はない」。

杉群(すぎむら)に昼のかなかな啼きいでて短く止みぬあやまちしごと 吉野秀雄

ごく日常の情景から「あやまちしごと」を導き出す。不倫の現場らしい。

胸のうちいちど空にしてあの青き水仙の葉をつめこみてみたし 前川佐美雄

スパークス前川と言っている。空(空虚)と水仙(ナルシズム)。象徴表現によるモダニズム短歌の代表だという。

八十のテロリストということをやあるひとつの憤怒のごとしこの悔恨は 坪野哲久

プロレタリア歌人のいきざま?

「卵のひみつ」といへる書(ふみ)抱きねむりたる一二の少女にふるるなかれよ 葛原妙子

「幻視の女王」と言われている歌人。こういうフレーズ好きだな。「歌舞伎町の女王」とか。

ポオリイのはじめてのてがみは夏のころ今日はあついわと書き出されあり 石川信雄(信夫)

シネマという詩集が話題となったモダニズム歌人。本の一節を短歌にしたのか?「ポオリイ」がわからんと思っちゃいけないようだ。その語感を楽しむのか?

濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ 齋籐史

「さいとうふみ」という女性歌人。幼なじみが2.26事件で処刑された短歌だという。どんだけ~、だよな。

あぢさゐの藍(あゐ)のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あかねさす昼 佐藤佐太郎

「幻視の女王」葛原妙子と双璧なすモダニズム歌人だそうだ。「幻視の皇子」とは言われなかったようだ。

ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す 宮柊二

戦争短歌。戦争短歌は、斎藤茂吉らの戦争翼賛短歌もあるがこういう短歌もあったということだ。もっとも宮柊二は、次の近藤芳美とともに戦後派の代表歌人だという。

照らされてB二十九は海にのがれ高きホームに省線を待つ 近藤芳美

『戦争と短歌 』近藤 芳美

『歌い来しかた―わが短歌戦後史』近藤 芳美


こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり 山崎方代

戦争で失明し定職につかなかった伝説の放浪歌人。作品にはフィクションも多く含まれていたというが、彼の生涯を詠っている。

革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ 塚本邦雄

塚本邦雄は短歌より批評とかの方が知られているのかもしれない。近代短歌の源である「吾」を廃することで普遍性の世界へと向かっていく。やがてそれは虚構化されていくのだが。

遺産なき母が唯一のものとして残していく「死」を子らは受け取れ 中城ふみ子

乳癌にかかり『乳房喪失』での注目。想像力による虚構と自己劇化の方法は寺山修司らの前衛短歌に影響を与えた。そして、女流短歌としての流れを変えたという。

かたはらにおく幻の椅子一つあくがれて待つ夜もなし今は 大西民子

夫から離縁された時の短歌。先の中条ふみ子とは対極の古風な(「待つ」女の伝統)短歌か。

白壁を隔てて病めるをとめらの或る時は脈をとりあふ声す 相良宏

盗聴短歌ではありません、病室内での、けっして外に出られない療養短歌。死と隣り合わせの生の世界の憧れ(片思い)短歌だという。

青空の井戸よわが汲む夕あかり行く方を思へただ思へとや 山中智恵子

「現代の巫女」と呼ばれる斎宮の研究の歌人。釋迢空と似ているのかも。容易に近づき得ない。もうこの一人称は天に捧げられている。

父よ その胸郭ふかき処ににて梁からみ合うくらき家見ゆ 岡井隆

前衛短歌運動の旗手から宮中の歌会始めの選者へ。時代の象徴としての歌人だろうか。

夭死せし母のほほえみ空にみちわれに尾花の髪白いそむ 馬場あき子

『風姿花伝』の能などが歌われる。現代短歌のビックマザーだという。先の岡井隆の父と並べてみると伝統芸としての短歌が伺えるのかも。近年の「都市はもう混沌として人間はみそらーめんのようなかなしみ」という短歌がいい!そういえば『ユリイカ2013年1月臨時増刊号 特集=百人一首 』での水原紫苑との対談でも、逆に現代的な面白さを感じたのは馬場あき子のほうだった。


マッチ擦るつかのま海に霧ふかし見捨てつるほどの祖国ありや 寺山修司

最初にこの短歌に触れたときの衝撃が忘れられない。何よりも私が短歌でイメージするのは、寺山修司かもしれない。この短歌は富澤赤黄男の「一本のマッチをすれば湖は霧」と「めつむれば祖国は蒼き海の上」の二つの俳句のコラージュというか剽窃なのだという。

寺山修司のそういう大胆さ、例えばマルケスの許可なく『百年の孤独』を勝手に映画にしたり(『さらば箱舟』)、大衆芸能の図々しさと前衛的なあの頃の雰囲気が好きだ。ジャニス・ジョプリンの「チープ・スリル」的な。


兄たちの遺体のごとく或る日ひそかに村に降ろされし魚があり 平井弘

この兄は虚構なんだそうだ。兄が居ないのにそういう短歌を作り続ける。寺山修司の実際の母と虚構の母。異界なんだろうと思う。幻視者の系譜?

転倒の瞬間ダメかと思ったが打つべき箇所を打って立ち上がる 奥村晃作

些細な日常だがドラマ的な「私」短歌。現代短歌はほとんどこのスタイルかもしれない。

あの夏の數かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ 小野茂樹

よくわからんけど戦後の恋歌なんだそうである。無数にして唯一の表情だとか。「綾波の微笑み」を連想してしまった。

ハイパントあげ走りゆく吾の前青きジャージーの敵いるばかり 佐佐木幸綱

佐々木一族の末裔短歌。伝統短歌かと思うとちょっと違う。モテ男は短歌を作らないという種村弘の批評が面白い。佐佐木幸綱の周りには敵ばっかなんだろうと思うと面白い。少数派だけの短歌の伝統としては、正しき「吾」なのか?

いかに泰子その前日はわけもなくただもうわれは雲雀であった 福島泰樹

『中也絶唱」からの絶唱短歌。短歌をライブとして朗読パフォーマンスで話題を呼ぶ。プロ意識が高いような。

【俳句 小澤實 選】

春の日やどの子の顔にも墨だらけ 井月(せいげつ)

「文明開化」と前書きあって、喜びが伝わってくる俳句になっている。

乾鮭をたゝいてくわんと鳴らしけり 村上鬼城

「くわん」は文語になっているが「かん」という音だそうだ。「くわん」の方が響きが長いような。


我袖に来てはね返る螽(いなご)かな  正岡子規

1894年、散歩して写生に開眼した句だという。

糸瓜(へちま)咲いて痰のつまりし仏かな  正岡子規

子規絶筆。

芋虫の雨を聴き居(お)る葉裏哉  尾崎紅葉

観察眼というより、作者の境遇という。

思はずもヒヨコ生まれぬ冬薔薇(ふゆそうび)河東碧梧桐

新傾向俳句は、当初取り合わせ俳句が実践だったという。冬薔薇を「ふゆそうび」と読むのが珍しい。

伊藤健太郎の主演映画「冬薔薇」、きょう公開 “ロクデナシ”の男役(オトナンサー) - goo ニュース https://news.goo.ne.jp/article/otonanswer/entertainment/otonanswer-115485.html
流れ行く大根の葉の早さかな  高濱虚子

アンチ虚子なんだけど、この句は凄いと思う。虚子の客観写生の到達点という。

冷々と舌に載りけり初鰹  増田龍雨

美味しそう。

しのび音(ね)も泥の中なる田螺哉  永井荷風

「妓楼の行燈に」とある。荷風の世界を俳句で。

分け入っても分け入っても青い山  種田山頭火

山頭火と尾崎放哉の区別がつかない。坊さん系が山頭火?ここには、尾崎放哉が載ってなかった。「咳をしても一人」の自由律俳句。

人殺す我かも知らず飛ぶ蛍  前田普羅

まだ人を殺しておらず、そんな我から魂(蛍)が飛んでいくという俳句という。「物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞみる  和泉式部」

退屈なガソリンガール柳の芽  富安風生

「ガソリンガール」とは言わんよな。『巨人の星』の姉ちゃんを思い出した。「花形にガソリンガール即注入」。

採る茄子の手籠にきゆアとなきにけり  飯田蛇笏

こういう擬音の俳句はなかなか作れない。憧れる。

秋風に殺すと来る人もがな  原石鼎

俳句を風流なんて思わぬ方がいい。ただこの俳句は自分が殺される方で、来るといいなあ、と秋風に思っているのは風流なのかもしれない。「もがな」は願望の終助詞。今度、使うもがな。

竹馬やいろはにほへとちりぢりに  久保田万太郎

これは誰が見ても名句。

花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ  杉田久女

女性俳人の貫禄を感じる。近代俳人中最大の存在感を示しているという評。

蛇女みごもる雨や合歓の花  芥川龍之介

芥川の俳句は好きだ。芭蕉の「象潟や雨に西施がねぶの花」の本歌取り。見事に芥川の世界になっている。

水洟や鼻の先だけ暮れ残る  芥川龍之介

自殺する直前で、この自画像句。

甘草の芽のとびとびのひとならび  高野素十

甘草は萱草らしい。よくわからんが写生句の極地。「草の芽」俳句と水原秋桜子には、瑣末主義と否定されたという。見方もいろいろだ。

揚羽蝶おいらん草にぶら下がる  高野素十

ここまで来ると芸術的。

金剛の露ひとつぶや石の上  川端茅舎

金剛は仏教用語だが水を現している。こういう仏教用語で俳句を作ると精神性を示せるのか?道元の水の思想らしい。

牡鹿の前吾もあらあらしき息す  橋本多佳子

なんか男受けを狙ったようで嫌なんだが。美人俳人だから許す?四Tは、橋本多佳子と中村汀女・星野立子・三橋鷹女。

夜業人に調布(ベルト)たわたわたわたわす 阿波野青畝

擬態語が「たわたわたわたわす」爆走して混乱する感じかな。

少年や六十年後の春の如し  永田耕衣

何気ない句だけど、その歳になるとよくわかる。アイク・ケベックの「春の如く(It Might As Well Be Spring)」を想い出した。


ゆで玉子むけばかがやく花曇  中村汀女

家庭人俳句?かな。

水枕ガバリと寒い海がある  西東三鬼

新興俳句の大袈裟さに惹かれてしまう。写生句と対極だよな。

首のない孤獨 鶏(とり) 疾走(はし)るかな  富澤赤黄男

新興俳句。無季、1字空きの手法。憧れの俳人。

秋灯を明(あこ)うせよ秋灯を明(あこ)うせよ  星野立子

虚子のお嬢さん俳句。五・五・五・五(ゴーゴー)のリズムの奔放さ。親の顔が見てみたい。

目をつむりていても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹  寺山修司

自由なようでいて精神統一的な、最初の「目をつむりていても」の邪念が、五月の鷹に統一されていく。鷹は冬の季語、「五月の鷹」で夏の季語。なんかアニメのヒーロー感。


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