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シン・現代詩レッスン46

峠三吉『原爆詩集』

毎年のように行われる「平和の式典」もいいのだが先日ナチスをパロディ化する映画を観て、そろそろ日本もそういう映画が出てもいいのではないか?と思った。

『はだしのゲン』の実写化はそれに近かったのだろうか?


例えば泉鏡花の『夜叉ケ池』での妖怪たちの行進という形で広島巡礼に行くというのはどうだろうか?

峠三吉『原爆詩集』は序から始まる。そのコトバはひらがな書き(原民喜の原爆後の描写がカタカナ書きであった)で難しさはない。



ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

峠三吉『原爆詩集』

原爆の凄まじさはそれが人の形を止めないということだとこの詩から知った。例えば盆踊りは共同体の中心にある仏を求める供養だとしたら、その中心を喪失したものたちが乾いた心を潤すように水を求めるのだった。もとは雨乞いという儀式から始まった祭りを水の癒やしを求める人間でないものの姿と重なるのかもしれない。

新・夜叉ヶ池

かっぽれ かっぽれ
からっぽのおれたちはこうしんす
どこへむかうかじゅんれいのたび

ひとをもとめて かっぽれ
おとこをもとめて かっぽれ
おんなをもとめて かっぽれ
にんげんをもとめて
かっぽれ かっぽれ

へいわのこうしん 虹のパレード
おや 蛇太郎もついていくかい
しきるのはあたしだよ
夜叉ヶ池の修羅雪姫とは私のことさ

やどかりの詩

ひとのこころを失ったもののけは声だけの存在。そんな存在に妖怪たちが同調する(水木しげるの妖怪たちのイメージ)。
最近流行りの「虹のパレード」。虹の中には蛇も姿を表すだろう。
七色の妖怪を率いるのは、コスプレ女王の雪白姫かもしれない。

「雪白姫」はバーセルミのポストモダン小説が参考になるかも。修羅雪姫だと思っているのだが。

八月六日

やがてボロ切れのような皮膚が垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿のうしょうを踏み
焼け焦げた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列



どこから現れたか
手と手をつなぎ
盆踊りのぐるぐる廻りをつづける
裸のむすめたち
つまづきたおれる環の
瓦の下から
またも肩
髪のない老婆の
熱気にあぶり出され
のたうつかん高いさけび
もうゆれる炎の道ばた
タイコの腹をふくらせ
唇までめくれた
あかい肉塊たち
足首をつかむ
ずるりと剥けた手
ころがった眼で叫ぶ
白く煮えた首
手で踏んだ毛髪、脳漿
(略)
金色の子供の瞳
燃える体
灼ける咽喉のど
どっと崩折れて

めりこんで

おお もう
すすめぬ
暗いひとりの底
こめかみの轟音が急に遠のき
ああ
どうしたこと
どうしてわたしは
道ばたのこんなところで
おまえからもはなれ
し、死な
ねば

らぬ

峠三吉『原爆詩集』

ちょっと長い引用だったか?なかなか切れないのだ。しかし、ただ言葉を羅列するのではなく表現としての工夫が観られる。その中にリアルなコトバたち。

かっぽれ 拾っていくよ
人間ではない魂を
かっぽれ かっぽれ
空っぽのこの身体に
七色の妖怪たち、
かっぽれ、蛇太郎
かっぽれ、蟹五郎
かっぽれ、鯉七
かっぽれ、鯰入道
かっぽれ、名無し男
かっぽれ、名無し女
そして、修羅雪姫が
かっぽれ 御旗を立てる
巡礼の旅

やどかりの詩


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