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箱庭に取り囲まれて四葩の花

だらけて午後二時まで寝ていた。今日は図書館に返却するつもりの本が読めてなかった。詩人の本は難しいのか。詩人以前に宮沢賢治『銀河鉄道の夜』がそんな簡単なはしじゃないのか。もともと未完だったものを作者の死後にまとめたものだから、いろいろな矛盾とかあるので、それを二人の詩人が明らかにしていくという対談本なのである。

分かったこと。銀河は「天の川」ではなく「ミルキー・ウェイ」という道になっているのだ。それは重要なことで母に届ける牛乳がなかったということから、夢を見て「銀河鉄道」に行くということだった。

その前に授業で「銀河」の説明があり河ではなく星々の集まりは牛乳の粒子のようにと説明されているのだ。そこから夢を見るのだ。幻想物語なのだが宮沢賢治はこのへんは科学者なので論理的だという。ジョバンニの引き裂かれた意識として、病気の母に牛乳を持っていくことと河で死んだカムパネルラといっしょに行くというふたつの引き裂かれた心があるということだった。引き裂かれる心は誰にでもあるものだが、それが夢を見させて、ジョバンニはノートで記録することをするのだが、出来ない。宮沢賢治の書くことの挫折ということだった。そういう挫折を誰もが経験している。

そこを詩人二人、入沢康夫と天沢退二郎が解説していくのだが読み解きが繊細すぎて、銀河鉄道の座席の位置とかから綿密に明らかにしていくのである。自分がこの本を読もうと思ったのは『春と修羅』の繋がりで、妹の追想の童話なのかと思ったのだが、そういうこともあるのだが母親という存在があまり頭になかった。メーテルなのかな?あれは漫画のほうか。メーテル的存在だよな。たぶん、臨床心理学の河合隼雄だったら「グレートマザー」的存在なのだろう。河合隼雄は『銀河鉄道の夜』について書いているかもしれない。やっぱ書いていた。

自分の精神分析をしなくてはいけない状態なのかもしれない。今日は死なないようにして、明日図書館に本を返しに行こう。

映画は「マッドマックス」よりも「猿の惑星」を見に行きたいのだがそれは「猿の惑星」を見ることでハリウッド映画の進化論のようなものを感じられると思っているからだ。「マッドマックス」でもいいんだけど。「猿の惑星」で猿だと考えたのは日本人だったといのがあって、あれは逆転世界の話でもし日本人に支配された世界だったらというのがテーマとしてあるという。それで日本人捕虜となった体験が原作者にあったのだった。

TVは録画処理でいろいろ『光る君へ』関係を。明恵の世界とか。西行的な人だったのか?むしろ西行が明恵の影響を受けていたのか(影響関係にあった人)、法然・親鸞に繋がる仏教の教えとか。地獄と極楽を説いた人という。

こっちにも河合隼雄が関係してくるのか?

Amazon Primeで『麗姫と始皇帝 月下の誓い』。ほとんど「キングダム」だと思うがもともと「始皇帝」のドラマだから中国原作ものなのかな?「麗姫と~」が面白いはキングダムに女性剣士が絡んでくること。それもほとんど主役級で。彼女は秦に滅ぼされた小国の姫なのだが、父母や祖父を殺されて復讐心に燃える。それが秘剣を授かっているとされるのだが、まだそれは明らかにされず祖父の弟子の青年と兄妹のように育ち、その昔に始皇帝が幼い頃に趙に人質となっているときに麗姫らと知り合って、「月下の誓い」をする。それが三角関係的にストーリーが進んでいくのだが、よくある恋愛物語的要素を加えながら、「シスターフッド」という「義姉妹の誓い」もするのだ。このへんが現代的なのか。麗姫はどちらかというと喜劇的な要素もあるし、逆に始皇帝=嬴政(えいせい)に悲劇的要素があり、そのへんの展開が先が読めない。

今日はやることが多くなった。とりあえずまとめだけでもこの後すぐに。

今日の一句。紫陽花。四葩の花。

箱庭に取り囲まれて四葩の花 宿仮

箱庭療法的な精神かな。俳句でも短歌でも詩でも箱庭なのかもしれない。

短歌。

断ち切った
絆を求めて
物語
箱庭の部屋
四葩の花咲く

実際には萎んでいるのだが。なんとかしていこう。

あとNHK聴き逃しで「ジャズ・トゥナイト」はエリントンとカウント・ベイシー特集。エリントンは以前から良く聞いていたのだがカウント・ベイシーをじっくり聞いたことはなかった。エリントンが複雑な構造のジャズならベイシーは単純なジャズなのだが、そのリズムセクションが完璧にスゥイングさせるという。そこに名人芸のミュージシャンが加わるという感じか。

エリントンのベーシストがジミー・ブラントというモダン・ベース的なソロを演奏出来る人なのだが、ベイシーのベーシストはリズム・セッションに徹している。というかギターリストもフレディー・グリーンもリード・ギターではなくリズムセクションに徹していて、カウント・ベイシーのオール・アメリカン・リズム・セクションの要になる人だった。

そしてドラマーがチャーリー・パーカーのソロにシンバルを投げつけたと言われるジョー・ジョーンズ。そんな鉄壁なリズムセクションがあるからこそソリストは自由に歌えるというスタイルだったのだ。

だからベイシーのジャズは単純でエリントンに比べたら単調な感じがしたのだが、意外にソリストが活躍しているのは、そういうリズムセクションでやりやすさもあったのだ。だいたいベイシー好きかエリントン好きかにわかれるような気がするのだけど、それはそういうところだったのか?

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