冬至過ぎ春よ来い!と吉祥天
弁財天。昨日、「漢詩を読む」で蘇軾「冬至の後」という漢詩で吉祥寺が出てきた(無論中国の話)のだが、それを祀っているのが吉祥天だと知って、「ガラスの仮面」で月影先生が舞った「紅天女」は「吉祥天」かもしれないと論考したのだった。
昨日は日記を五回ぐらい書き足していたのだ。だから最終的に4千字を超えた。その試みは暇だったこともあるのだが、いつまでも詩が書けないこともあった。それでお品書きという料理の鉄人の道場六三郎方式を真似て「お品書き」という今日の予定を書くことで実現していくという日記の鉄人のつもりだったが、実現せずに空事として終わった。言霊師としては痛い失敗なのだけど(なぜなら言葉の実践が言霊師としての能力であるからだ、そうして予知能力を鍛えていく)、今日は弁天様に行こうかと思ったのである。
吉祥天と弁天様は同じだと思っていたら、違って天女の舞ひが吉祥天で弁天様は楽器担当の女神だった。この辺に吉祥天は思い浮かばない。検索したら「吉祥天」という花が出てきた。相模原なら近いが花は五月だった。
やっぱ今日は弁天様だな。
けっこうナウいな。エレキギターの弁財天。
メタルバンドの吉祥天と弁財天か?
キャロル・ケイとか地味めの弁財天っぽい女性ベーシストか?
また道草だ。本題は「お品書き」だった。今日はNHK短歌と俳句があるからそっちのレッスンもやらなければ。このあと直ぐだな、俳句の方のテキストが小澤實『芭蕉の風景(下)』になる。上巻は期限が来たので返却したので代わりに借りてきた。あと金子兜太『短詩型文学論』の続き。
「シン・短歌レッスン」も『短詩型文学論』をやろうとおもっているのだが、こちらは岡井隆だった。二人の理論はちょっと違って、岡井は「調べ」を和歌から始まる日本の短詩型の源とするので、二人の意見の食い違いがあるのだが。岡井隆はそれが前衛短歌運動に繋がっていくという主張なのだ。
「シン・現代詩レッスン」はたたき台としての詩を何にするかだった。『現代詩手帖』からにしようか、大岡信『現代詩の鑑賞101』にしようか悩んでしまった。詩人の小笠原鳥類の動画『吉岡実を読め!』を見た。
なかなか進まないので今日の一句。これが決まらないとタイトルが決まらない。また、そのあとだらだら日記を追加していくかな。読書は宮城谷昌光『天空の舟 上』を少し読んだ。中国の神話時代の殷の宰相の小説伊尹伝。この続きも読む。今日中には無理かな?
今日の一句。
やっぱここは吉祥天のほうが華やかか?
季重なりだった。これだとめでたい女神二人入れよう。
そういうパンク・バンドがあるという。
NHK俳句を見ようと思ってTV付けたら『パリ、テキサス』がやっていて見入ってしまった。ヴィム・ヴェンダースの傑作映画であるだけでなく「ロード・ムービー」というスタイルを知った映画でもあった。
音楽がライ・クーダー、ヒロインがナターシャ・キンスキー、トラビス演じたのはハリー・ディーン・スタントンだが、脚本のサム・シェパードの荒廃感だろうか?荒廃したアメリカの風景がそこにある。かつての父なるアメリカはヴィム・ヴェンダースのアメリカ映画のイメージなのかもしれない。
「パリ」は妄想としての都市で、日本で言えば銀座ということか。あっちこっちの郊外にある銀座商店街。しかし今はシャッター商店街というような荒廃感。そこにかつて夢をみた恋人たちがいた。パリの夢。
ラストの覗き部屋で部屋の中は断熱材がむき出しになっているハリボテ感。ハリウッドのセットみたいな。スクリーンが窓となって男が視る覗き部屋なのだが、かつての映画のスタイルだったかもしれない。それが電話で対話できるというのが、この映画が対話の映画でもあった。
男の妄想と恋人たちの夢。その終焉が息子の誕生なのだけど、母性の回復の映画でもあるのかもしれない。息子に父親らしいところを見せたかったトラビスは母を見つけ出すのだった。テープレコーダーの一方的なメッセージは息子たちに残す駄目親の妄想だったのか?
男は父親にもなれず恋人にもなれず妄想の荒廃したアメリカを走り続けるしかない。いい映画だけどこんな映画に感動してしまったのだとあの頃の青春時代を振り返る。
そう言えば覗き部屋のビルの壁画は自由の女神だった。パリのアイコン。
今日の一首
「NHK俳句」見てたら十時を過ぎてしまった。昼には出かけたい。背中が痛い。散歩は諦めるか?「NHK短歌」を見よう。