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笑劇の誕生

『外套・鼻 』ゴーゴリ , (翻訳)平井 肇(岩波文庫)

ある日,鼻が顔から抜け出してひとり歩きを始めた――.滑稽洒脱かつ透徹した写実主義的筆致で描かれる奇想天外なナンセンス譚『鼻』.運命と人に辱められる1人の貧しき下級官吏に対する限りなき憐憫の情に満ちた『外套』.ゴーゴリ(1809―1852)作品の名翻訳者として知られる平井肇(1896-1946)の名訳2篇.

外套

カフカの『変身』と双璧。というかカフカってゴーゴリの影響を受けている気がする。アカーキイの「外套」は毒虫の鎧そのものの不条理さだ。外套をまとっていたときにすでに幽霊になっていたというのはナボコフの説。幽霊というか亡霊か。その亡霊に引きづられていくのが文学なのか。外套というその文字化によってその中にいる人(魂)をイメージして探し求める過程。アカーキーは文書係で文字を清書する仕事をしていたのも興味深い。一人称を三人称するよりも、大臣とか皇帝とかの文書を清書をする夢見る役人だった。

「アカーキー・アカーキエヴィチが我を忘れて深入りしてゆく外套着用の過程、つまり外套の仕立てとこれに腕をとおしていく過程は、実のところ彼が服を脱いでゆく過程、自らの幽霊の完き裸身へと漸次回帰してゆく過程にほかならない。」(ナボコフ『ニコライ・ゴーゴリ』)

鼻が主人公から離れて勝手に行動する小説だが、「鼻」は換喩的表現なのだ。それが切り取られるということは、臭いの消滅、最初床屋の髭を剃る手が臭いということだった、無味無臭というと人工的な模造品のような感じだが、ペテルブルグという都市がまさに人工都市であったのだ。

そして換喩的表現は上位(主人公)が下位(床屋、鼻)概念の逆転現象だが、それもこの喜劇の面白さなのだ。鼻が主人よりも地位が高く振る舞う。

通常は上位のものに逆らえない日常世界、それを逆転させたことで喜劇が生まれる。そして、八等官のコワリョーフは試験で選ばれたのではなくコーカサスの地主階級のコネで地位を得たと思われる。さらに自分自身を八等官というよりは少佐と呼ばせていた極めて見栄が強く見せかけだけの地位だったのである。

そんな男の鼻が無くなる。そして鼻が勝手に振る舞う。なによりも面白いのが鼻の捜索のために新聞広告を載せようと迫るところだ。新聞屋は嘘を書けないと突っぱねる。しかし、それは逆に読めば新聞は真実を書けなかったのではいか?実際にコワリョーフの鼻がないのを確認するのだが、それを当時流行りの小説にして載せればいいと言うのだ。メタフィクションの要素もあるのだ。ラストの落ちでゴーゴリがその小説を書いたことになるのだから。

そして、医者の言うことも鼻を付けることは出来ずに、それをホルマリン漬けにして、見世物にして小金を稼げるというのだ。実際に鼻の噂は拡がり、鼻の現れそうな所には見物人が集まり出店まで出ていたということだ。当時の社会が伺われる。真実より噂がはびこっている社会。そこがペテルブルグなのだ。コワリョーフの鼻の実体のなさ。それは『外套』のアカーキー・アカーキエヴィチのゴーストと変わりがない。

以前読んだ後藤明生の本がゴーゴリの笑劇(喜劇)について詳しかった。


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