向日葵はゴッホの世界、ゴーギャンよ
暑い。部屋にはいられないと思ったが「シン・短歌レッスン」と「シン・現代詩レッスン」をやってしまおうと思って、引きこもっていた。まだ6月だと思っていたが夏真っ盛りの暑さだった。熱中症になりそうになるのも誰の責任なんだろうか?と考えてしまった。そもそもみんながみんなクーラーを使って外気温を温めていたら熱くなるのは当然で、その悪に対して何も対策がないのだった。エネルギー保存の法則を知らないのか?
エントロピー概念である。それを知れば人間の行為は反自然的であり悪なのはわかりそうなものなのに、誰もが責任を取ることがないのだ。責任を取れないということなのかもしれない。だからと言ってこのままエントロピーを増大させていけばますます地球破壊は近づいていくのである。SDGsなんてまやかしに過ぎないのは、そのあたりの本を読めば理解出来ると思う。
熱中症になろうと、クーラーを使わない正しさがあるはずなのに、社会全体がそれを認めようとしないのが腹立たしい。一人の力でどうになるものでもないが、そもそもその思考が地球に取って悪なのだった。人間の存在が悪そのものだと考えるとゲーテ『ファウスト』の悪魔主義も理解出来る。
生きることとは、そのぐらい過酷なことなのだ。だから神にでも祈らねばしょうがないのかもしれない。生きていれば腹も減るし、動かねばならないし、仕方がないことだとは思うのだが、その悪を実感しているのかしてないのかというのでは違うと思うのだ。
だから今日のレッスンそのものが生き抜くためのレッスンとなっているのだ。詩を書くということはそういうことだと思う。本来なら黙って祈っておけということなんだが、無神論者なのでどこかに不満を吐かねばしょうがないのである。黙っていても人生は終わっていくのだから。
読書は、そんな共感を持ちながら『平岡正明著作集(上)』を読んだ。まあ、すべてを読まなくてもいいたいことは理解出来ると思った。ただその正義をなすために革命なんかに手を出すのはアホだと思うだけだった。そのへんは冷めきっているシラケ世代なのだろう。まず日本では革命なんて起きるはずはないと考えるのは、この社会に生きていればわかることのような気がする。それをあえて革命と書かねばならない道化師的な側面があると思う。そういう人が最近は少なくなったが。
『詩の本〈1〉詩の原理』こっちの方が実践的に思えた。後で感想を書く。
今日は図書館に予約本を取りに行き、この二冊を返却する。あと一冊借りられるが余裕を持たせて置いたほうがいいのかもしれない。借りるとしたらサイードの帝国主義関係の本かな。
映画『ファウスト』を見た。チェコのストップ・モーション・アニメの巨匠ヤン・シュヴァンクマイエルの作品。ストップ・モーション・アニメで言えばクリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ監督『オオカミの家』の影響を与えたと思える。まあ、ゲーテ『ファウスト』を人形劇に置き換えているのだが、なかなかのグロテスクな作品。どうしてこうグロテスクになってしまうのだろうか?
朝はバッハでも聞こう。
今日の一句。
ゴーギャンに呼びかけたがすでに逃げられた一句。
今日の一首。
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