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現代詩に恋してた時代もあったかな

『今を生きるための現代詩 』渡邊十絲子(講談社現代新書)

詩は難解で意味不明? 何を言っているのかわからない? いや、だからこそ実はおもしろいんです。技巧や作者の思いなどよりももっと奥にある詩の本質とは? 谷川俊太郎、安東次男から川田絢音、井坂洋子まで、日本語表現の最尖端を紹介しながら、味わうためのヒントを明かす。初めての人も、どこかで詩とはぐれた人も、ことばの魔法に誘う一冊。あなたが変わり、世界が変わる。
序 章 現代詩はこわくない
第1章 教科書のなかの詩 谷川俊太郎のことば
第2章 わからなさの価値 黒田喜夫、入沢康夫のことば
第3章 日本語の詩の可能性 安東次男のことば
第4章 たちあらわれる異郷 川田絢音のことば
第5章 生を読みかえる 井坂洋子のことば
終 章 現代詩はおもしろい

著者と年代が同じぐらいだった。男女機会均等法が出来て女性の社会進出が可能になったが、エリートの女性はそれまでの輝きを失って男性社会にへつらうような仕草で仕事をしなければならなかった。アイドルの髪型を真似て、ボスの言う事に反発せずに軽くいなし、いつまでも態度を保留しながら男性社会で生きていく。その弊害が今の社会にあるのだと思う。アイドルの髪型を真似してで、あの国会議員を思い出しました。選挙区で土下座させられた。

現代詩は確かに80年代頃はおしゃれなアイテムだったような。モラトリアム期間に鬱々とした青春を言葉で謳歌するような。先行世代の村上春樹や寺山修司は女の子に持てそうで輝いていた。そして女性詩も全盛だったのかもしれない。今も活躍する伊藤比呂美さんとか井坂洋子さんとか、あと名前はわすれてしまったが疑似恋愛的に読んでいた詩人がいたなあ。なぜ、読まなくなってしまったのか?現実の女の子のほうに目を奪われたからだった。そんなもんです。

なんでまた現代詩が読みたくなったのか?多分に現実生活ではすでに女の子と知り合うチャンスもなく、またそうした肉体関係も好まなかった。またプラトニックな言葉の世界に回帰したのでしょう。

現代詩も幅が広くて、60年代ぐらいは難解な詩が多いです(黒田喜夫、入沢康夫)。それは敗戦の記憶を総括しなければならなかったから。今までのような叙情詩では駄目なんだと。そして、寺山修司のようなメディアを従えたポップカルチャーの作家がでてくる。その後に女性詩人が出てきたのが80年代ですか。ぼんやりした男より女性の方が社会の様々な問題が見えていたのかもしれない。

現代詩はわかる必要はないという。これだけ多様性が言われる中で各自の趣味もそれぞれで、世界にはわからないことの方が多いと認めること。その中で自分自身の孤独との重なりを読むというか、読もうと重ねていくのだと思います。安易にわかろうとしない。60年代の作家の難解さはそんなところにあるのかもしれない。

安東次男になると詩が音読によるものではなくて書き言葉としての日本の詩という新たな発見。日本語は同音異義語が多く、中国では同じ単語でもアクセントによる発音によって違いがわかるようになっている。そこで音読してすぐさまイメージ出来る世界がある。日本語はぼんやりしていると同音異義語の世界で溺れて意味がすぎさってしまう。それで文字で痕跡のように刻んでいく現代詩が出来たのたのだと。

詩集を見たときにレイアウトで楽しむ。中国の五言絶句とか七言絶句は同じレイアウトでそこまで楽しめない。おまけに日本語は、漢字、ひらがな、カタカナ、なんなら外国語まで駆使して変化を付けることができる。例えば「好き」と「スキ」では微妙な意味の違いが生じる。そういう言葉の世界に敏感なのは女子学生ですかね。

そして難解な戦後派の詩人のあとに大量の女性詩人が消費されたわけです。今もそのときから残っているは何人もいないと思います。私が疑似恋愛の感情を抱いていた女性詩人も行方知らず。どこかで詩を書いているのかもしれないが、結婚して、もう、いいおばあさんだろうな。

女性詩人の場合、自由に外に出て性の解放というのがあったと思う。ここで紹介されている川田絢音はそういう女性である身体性を抱えながら、外国生活で自己を確立した詩なんだと思う。この人はそれほどわかりにくくもないのは、物語になっているからですね。それがフィクションだとしてもリアルを感じる。

外側から  川田絢音

ちょっと そのまま
裸で踊ってみせてください
あなたとこうしていることは
彼女を裏切ることになるでしょうか
カナリアちゃん
また しましょうね
僕の名はユベール
今晩きみんちに泊まれる?
はかり知れないこの出会いが
突然の 愛撫の時を 呼びおこしたとして
何を悲しむことがあるのですか
やさしさが必要かと思ってね
幼稚はいいが
白痴は
こまる
金曜に寄るからね
僕はヘルペス持ちだから きみが
ヘルペスになる可能性もあるっていうこと
漁に出ていたらマンボウが
網にかかったんです
お月さんみたいな魚ですよ
元気かいハイエナ
吸血鬼
あんたが刺激されたんだ
ぼくがおとなになったら ぼくが あやねさんのうちへいきます         (1986年詩集『朝のカフェ』より)

男性の会話は複数で彼女の身体を通り過ぎた男たちだそうです。今の日本とそれほど変わってないような。これはイタリアでの話ですけど。最近話題になったKみたいな男も出てきそうですね。このへんになると散文詩で短編小説と変わらないですね。

井坂洋子の詩は「わたし」が関係性によって変質してくる。例えば、娘であるのと母では違う。職業的になりすましになるかもしれない。この後にパソコン通信が流行ってハンドルネームという別人格を持つことが一般人でも可能になった。そのときそのときで違う自分を演じている。そしてふと一人になって「わたし」の人間性について考えてしまう。それはカフカが書いた巨大な虫なのかもしれない。先の詩のマンボウがそんな感じの象徴詩ですかね。

あのころのわたしを包囲していた「不変の自分、揺るぎない自分」というフィクションを、伊坂洋子の詩はいつもかろやかにくつがえしていた。 
(『今を生きるための現代詩 』渡邊十絲子より)

メタルフォーゼ(変身)というと多和田葉子の作品もそうでした。彼女の散文もある部分現代詩に近いのかもしれない。あと最近の彼女の朗読パフォーマンスは、すでに詩人ですかね。そういうジャンル分けできない境界性の文学なんですね。

あまりにも現代はわかりやすさを求めて、なんでもマニュアル通りに書いていればいいというもんでもないのでしょう。そういう人は世の中に沢山いて、消費されている。寺山修司の言葉ではないけど、100年後に読まれる詩やら創作。安易に消費される繰り返しの物語ではなく、新たな詩を目指して。

そうなると、ただ現代詩を読むより書く方が楽しい気になれます。わからせるつもりなんてないと投げ出してしまえばいい。その孤独に耐えられるかどうかでしょうかね。


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