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秋の風ホットカーペット抜け出せず

写真は多分「メタセコイア」の木だと思うのだが葉っぱを調べれなかった(人の目があるので勝手折ることは出来ない)。そう思うことにして、横浜にも「メタセコイア」の木があったのだ。

ネット検索したら街路樹として植えられていた。これは確かめに行かなかければ。その余ったのが公園に植えられたのかしれない。

ちょっと寒さにホットカーペットから抜け出せない。「うたの日」「どんまい!」ばかりだし。

読書は短歌雑誌の『角川 短歌2022.4月号』ますます気が滅入る。

『失われた時を求めて 10』230p.ぐらいまで。

一度250p.までは読んでいたのだ。栞が無くなってまた200p.から読んでいた。ただここは結構重要なことが書かれており、二回読んで正解だったかも。

シャルリュス男爵のSM嗜好の過激さと共に彼の性格の過激さ。語り手の良き話し相手で遺言でも語り手に財産を譲渡するほどの仲であったのだが、その素性についてはわかることが出来なかった。SM趣味にしても理解できずに、愛人(モレルといヴァイオリン奏者)を失ったことを紛らわすものだと思っていた。

しかし、シャルリュス男爵の中にあるのは物語(彼の貴族の出自にまつわる精神性)から抜け出せなかったのだ。それは三島由紀夫がホモセクシャルであり、過去の日本精神というべき物語から抜け出せなかったのと似ている。

だからモレルがシャルリュス男爵から逃げていたのは、三島の自決のときの森田必勝のような介錯人の役割を拒んだ色男だけの人間だった。両刀遣いだがシャルリュス男爵に近づいたのは物欲の為で精神性はなかった。

橋本治『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』は三島由紀夫がシャルリュス男爵のように、物語から抜け出せなかった戦後民主主義との関係を描いている。昨今の若者に見る物語信仰もそれに近いものがあるように思える。

『芭蕉・蕪村 春夏秋冬を詠む 秋冬編』を少し。芭蕉はけっこう貴族階級に憧れがあったのかもしれない。それは西行などを通してだが、そこから俗世間から解脱していく感じなのか。古典的な和歌の本歌取りような俳句が多かった。蕪村はもっと身近なものを詠んでいた。けれどもその頃の町人階級のインテリ性があるのだと思う。

『中也を読む 詩と鑑賞』俳句・短歌に躓いて詩に手をだす。温もりはホットカーペットの一日。俳句に出来そう。

秋の風ホットカーペット抜け出せず  宿仮

何の工夫もない。「秋風」に種類があったことを思い出した。晩秋の秋風とかあるのだった。「白風(びゃくふう)」。

白風は足に温もり夢の中  宿仮

いまいちだ。短歌にのめって俳句を忘れていた。

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