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芭蕉の精神論ではなく表現論としての俳句とは何か?

『芭蕉の表現』上野洋三

芭蕉の生涯,蕉風俳諧の新しさ,不易流行の説などについての簡潔な概説を最初におき,芭蕉の表現の特徴を「塚も動け我泣声は秋の風」「はつしぐれ猿もこみのをほしげなり」などの句を例に,発句の評唱に則して解明する.また『奥の細道』の前後の対照や人物の形象を取り上げてその緊密な構造を浮かび上がらせ,芭蕉芸術の根源に迫る.

本書の主要なテーマは,芭蕉の発句を評唱することによって,彼の表現の特質を解明することです.「評唱」はなじみのうすい言葉ですが,『広辞苑』に「禅宗で,古人の説を品評し,提唱すること」とあり,さらにこの場合の「提唱」は「教えの根本を提示して説法すること」とあります.こうした語釈とは別に,著者・上野洋三さんは本書で,「評唱」に,詩歌を解釈する,批評する,顕彰する,という意味を持たせています.「岩波現代文庫版あとがき」に,本書を執筆した動機が記されています.

 この書物の中心をなす「発句の評唱」は,芭蕉の発句の註釈(口語訳)なるものが,いかにおざなり〔原文傍点〕であるかを,講義の準備のたびに痛感した挙句,誰もやらないのであれば自分でやるほかあるまいと決めてとりかかった.(347 頁)

 その頃,上野さんは,徳冨蘆花が鈴木三重吉の文章を読んだ感想に《しなしなして,よく悉(つく)す》と述べたものがあることを知りました.《しなしなして,よく悉す》とは,「好悪と別に,三重吉の小説が,事態・事物をじっくりと柔軟に追究し,描写し,文字通り具体的に書き尽しているところを〔蘆花が〕評価したものなのであろう」と推察されました.「芭蕉の発句に限らず和歌にせよ俳諧にせよ,古典の短詩型文学に立ち向かう態度も,やはりこの《しなしな》と《よく悉す》必要があると考えた次第である」.
 本書で繰り広げられる芭蕉の発句の厳密な解釈は,読者に圧倒的な力をもって迫ってきます.その最も特徴的な箇所として,本書第二部の「も考」の第四節「月も頼まじ」の箇所(本書62頁以降)があげられます.上野さんは,「そのままよ月もたのまじ伊吹山」という句の解釈にさいして,阪倉篤義さんの『万葉集』における助詞「も」の意味についての論文をひきながら,阪倉さんの学問的方法について,次のように書き記します.

国語学的な手続をとりながらも,実は一貫して,情理かね備えた「歌の解釈」をめざして書かれたものであるが,そのことこそは,作品の解釈,とりわけ短詩型の韻文の解釈に,最も強く要請されるところであろう.(64頁)

 これこそ本書を貫くライトモチーフ(芸術作品の基調をなす思想)です.厳密な学問的手続きを経て論理的に再発見される「感情的意味」.学術と芸術を架橋する確かな意思が強く読者に訴えかけてくる一節です.こうした学問的営為を経ていないと思われる解釈に対しては,上野さんは容赦ありません.時には先人・先学の評釈を取り上げ,「この著者は芭蕉の時代の辞書を一度も引いたことがないのではないか,と思わせるようなものを含めて,古典講読の共通の基礎さえもあやしいものが少なくない」と書くことをためらいません.その一方,「辞書を引いたとて,わからぬものはわからぬのであり,一読たちまちに一句の真意に接触することもあるだろう.しかし学術が歴史を積み重ねるためには,ひとつひとつ踏み固め,確認し,ここまではよろしかろうという共通の階段を築かなければならない.おそらく憎まれ役になるに違いないが,自分が捨て石になってもよい,ともかく,と開始した」(348 頁).
 上野さんのこうした姿勢は,長年にわたる岩波の《新日本古典文学大系》をはじめとする数多くの校注の仕事と密接なつながりがあることは言うまでもありません.その代表的な作品は本書カバーの著者紹介に記しましたが,スペースの都合で記載できなかったものに,岩波文庫の『吉原徒然草』 『松蔭(まつかげ)日記』があります.こちらも併せて御一読いただくようおすすめいたします.

図書館本なので、とりあえずまとめ的な感想。

この本は文芸批評を作品を読み込むことで解釈しようとする作品論であり、多くは芭蕉の人となりを解釈に加えていく作家論になっている。それは芭蕉の弟子たちが芭蕉を崇拝するあまりに芭蕉の言葉以上のものを補って解釈していく。

例えば『おくのほそ道』が観光地化され、それまでの解釈を検証することなくただ紹介している本が多すぎるという。『おくのほそ道』は巡礼とも言うべき俳文であるのだから、古典の枕詞を読み込んで学術的に解釈しようとする試みで、芭蕉の表現行為は精神論ではなく分析的に解明していく。

その中で今までの解釈の過ちを指摘していくのだが、研究論文と言ってもいいかと思うほど難解な部分もある。例えば芭蕉辞世の句も弟子たちによって本来言ってなかったのに上五は、「旅に病んで」とされたという。それは弟子たちの日記に書かれていた芭蕉の言葉は、後の七五の部分だけであり(「夢は枯野をかけめぐる」だがこれも弟子たちによって俳句の言葉にされていた)、弟子たちが芭蕉の姿を理想化してそこに描いたに過ぎないとする。

『おくのほそ道』は曽良の日記による解釈が読みを限定しているが、芭蕉による『奥の細道』改訂版というものが発見されたことによって(漢字表記するのは改訂版の意味があってか?)、曽良の日記から読むのは当てはまらない箇所がある。

それは芭蕉が『おくのほそ道』を旅する以前に構想を構築していた形跡があり、よく言われる「春」から始まって「秋」に到達していく構造的文章、そしてそのように構築された創作物であるから、即興で書かれたものではないのだ(旅してから数年後に『おくのほそ道』は書き上げられた創作品なのである)。芭蕉の計算があって、適材適所に俳句を置き、歌枕の巡礼地を廻ったのだとする。


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