見出し画像

源氏名は金芝河という読めない詩人

趙南哲『評伝 金芝河とは何者だったのか』の感想を書いて、世代間の感性の違いは起きるが、旧世代が自分たちの過ちを現世代も犯しているというのは思い上がりもいいところだろうと思うのだった。金芝河の過ちは過去の悪事は詩人金芝河となるためのものだったというのは理解出来るが(そう本人が告白するなら)、それが現世代と同じと思考することに間違いがあると思う。それは告白というキリスト教的な信仰によるもので、精神分析の医者があなたは病者だからというのに似ている。それは告白というシステムの中に含まれる従属構造だからだ。そうした従属構造から逃れがいために反体制詩人であったのにそれを自己否定していくことは結局権力側に寝返ることにしかならなかった。それは金芝河の中に反権力という中に権力という反作用が組み込まれていたのだと思う。それは日本の学生運動でもそうだったということだが、韓国の光州事件世代はそうなのかというと、そこは違うと趙南哲は主張するのだった。

詩人でも反体制だと思っていたのに保守反動になってしまう例がパウンドとかエリオットに見られた。それに似ているのかもしれない。金芝河が新興宗教的に告白というイニシエーション(通過儀礼的な)を通して真人間になるという驕りみたいなものを感じてしまう。真人間になった者だから偽人間を断罪できるというような。白黒しかないような。それは中心を求める権力性なのだ。

日本の詩人も転向して権力側に寝返ってしまうようなことがあったのだ。実際にそれはパレスチナを非難してイスラエル支持に回ることと似ているのかもしれない。

図書館。『文化と帝国主義1』を返却して2を借りるが、相変わらず難しい。1は帝国主義の文化で、2は植民地の文化ということなのだが。ポスト・コロニアルということなのだろう。

テキストとしてJ・M・クッツェー『サマータイム、青年時代、少年時代』を読み始める。

江田孝臣『『パターソン』を読む』読み始め。「パターソン」というのは街の名前で産業化で賑わったがその後不景気というようなアメリカの典型的な郊外の都会という感じなのか?それが映画『パターソン』のちょっと懐かしい感じだった。ギンズバーグとは仲が良く、『パターソン』を読んだギンズバーグが感動してウィリアムズに手紙を出して「パターソン」は俺の街だというようなギンズバーグを主役とした詩も考えていたとか。

『窯変 源氏物語』「東屋」突入。本を読み散らかしているがイマイチ集中できなかった。

「ジャズ・トゥナイト」を聴いて映画を見に行く。今日のジャズはウェイン・ショーター『ジュジュ』。かなり好きかも。

映画『医学生ガザに行く』は現在のガザよりも以前に撮られた映画だが面白かった。イタリア人青年のガザ体験のドキュメンタリー。でもそれをカメラに収めていたということは、最初から仕組まれたドキュメンタリーなのかもしれないが。実際に爆撃シーンとか出てきて凄い世界だと思った。何よりガザの青年がここを出ることは億万長者になることだというようなことを言っていた。現実には不可能なことなのだが。爆撃の後に大きな音楽をかけて踊り狂うところに彼らのリアルさがあると思った。

シネマリンで『ひろしま』と『野火』の上映会の予告編を見た。そういう時期なんだな。

今日の一句。

源氏名は金芝河という読めない詩人 宿仮

今日の一首

詩人でも
読めない漢字
地下活動
プロパガンダは
お茶の子さいさい


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?