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冬木立電線に鳥止まる夕

これはすずめじゃなくてムクドリだったな。たぶん。なんかこの電線は鳥が集まってくるのだが、鳥が好きな電波でも流しているのか?周りに大きな木がないこともあるんだろうけど不思議な電線だ。

正月からフェミニズムづいているがそのきっかけが「高橋源一郎の飛ぶ教室」だった。鈴木涼美もそこが出発点。

【聴き逃し】高橋源一郎の飛ぶ教室 鈴木涼美『グレイスレス』の世界を味わう 1月27日(金)午後9:05放送 https://www2.nhk.or.jp/radio/pg/sharer.cgi?p=6324_01_3837861

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高橋源一郎の読みは作家としての方法論としての読みで結構深いと思う。この小説が祖母ー母ー娘の家族小説と読むというのはなるほどと思う。何よりも母の描き方に母の時代にはあったもの、例えば文学的理念(高橋源一郎は『嵐が丘』の情景の手紙をもっとも美しい箇所だと指摘する)を見出すのか否か、たぶん鈴木涼美はそれは幻想だと思っている。そのことの美というか滅びの美学というような。

AV女優の化粧師という職業は、葬式の時の納棺師を連想する。AV女優の屍体としての姿、それは精液という血液に塗れた姿としての、エロが死と隣り合っているのはフロイトを持ち出すでもなく、文学的な大きなテーマだ。

彼女が母親の死によって、母の世代(例えば上野千鶴子や伊藤比呂美)と対峙することは彼女の中にあるテーマだと思う。それまで文学的なテーマとして父と子の葛藤は多く書かれているのだ。そのテーマにそった私小説と見るのだがどうだろうか。むろんそれはフィクションである。

伊藤比呂美が小説を書くことについて、堅苦しいのにどうして書くのか質問していた。鈴木涼美は快楽だと言うのは高橋源一郎も同じなのだが、伊藤比呂美はなぜ小説でなければならいのかということだった。エッセイや詩などいろいろな表現形態があり、その中で小説を書くこと。多分鈴木涼美の中では美学的なものが在るのだと思う。小説の方が一段高いというような。

それは安易に小説など書かないように忠告した上野千鶴子に反する行為だった。上野千鶴子が小説を否定するのは、そこが男の世界だからだろうか?社会学者としての上野千鶴子とプライベートを分かつことが出来るのに、それを晒していくことに無謀さを感じているのかもしれない。それは鈴木涼美のスタイルとなっていると思うのだがまだあからさまに素を晒していないように思える。へんに文学的なのだ。

そこの部分で伊藤比呂美なんかは言葉に対する甘さを感じるのかもしれない。ちょっとラジオではうるさい叔母さんポジションということだったが、彼女はまだAV女優という枕詞が付く中で売られているのをもっと意識すべきなのかもしれない。高橋源一郎はそうした壁は書いているうちに自然に起きるものだと言っているが、そうだろうか?

鈴木涼美はそれなりに興味はあるがどっちかというと自分も元AV女優という目で見てしまう気がしてならない。

そんな感じでジェンダー小説として面白いと思ったのが『とりかへばや物語』。

『グッドバイ、バッドマガジンズ』。映画はいまいちツッコミが浅いと思った。

もうこんな時間になっていた。日記さえもがしんどくなっている。俳句の時間。今日はなしにしようと思ったがタイトルをいれなければならなかった。そういえば、『グッドバイ、バッドマガジンズ』でコラムのタイトルを付けるのが短歌や俳句のような七五調なのに笑ってしまった。「和同開チン」とか。

冬木立電線に鳥止まる夕

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