シン・短歌レッスン11
西行短歌
今日から古典強化月間として、西行を。たまたま塚本邦雄『西行百首』が面白そうだったので手に取ったのだが。
塚本邦雄が西行を褒め称えるのかと思ったら批判していた。歌合で藤原俊成は、自我が出すぎで麗しくないとしたのだが、西行が歌通りに亡くなったので伝説が西行神話となって語り継がれてしまった。死を露骨に予言的に詠むのはあざといと言われればそうかもしれない。この桜の歌のせいで特攻と桜が結びついてしまったのかもしれない。
模範十首
『ねむらない樹vol.7』が葛原妙子特集なので、「幻視の女王」を読んでみる。今日は吉川宏志選の十首。
「奔馬(ほんば)」が読めず調べたら三島由紀夫『豊饒の海 第二巻 奔馬』があった。そのイメージからなのか?「われのみが累々と」の字余り。すでに「幻視の歌」なのか?サラブレッドの牧場で詠んだらしい。
これも字余りの歌だった。占領軍が攻め入る恐怖を歌ったものだから、その恐怖心が字余りになるのは当然ということなのか?なんか自由すぎるな。
自己中ばかりかと思ったら夫や子を詠う歌が多い人なのか?
『セガンティーニ描く「奢侈の刑罰」』こういうわからない固有名出すのはどうなんだろう?
「鯉のぼり」の歌も字足らずだったり字余りだったり自由すぎる。
「かの黒き」はどう読めばいいんだ。広島の歌だとわかるけど。
「晩夏」のような家事の中で一瞬に歌にするような方がいいような気がする。
「さびしあな」は「寂しいああ」ということらしい。神無月に神が出雲に戻ってしまう歌らしい。単語登録した「神」が役立った。もうこの神だな。
「さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ」の口語がいい。こういうの使えると覚えておこう。英語を自己流に詠むとか。
『短歌と俳句の五十番勝負』
穂村弘X堀本裕樹『短歌と俳句の五十番勝負』は、短歌の特性と俳句の特性を知る上でも面白い本である。同一テーマで短歌と俳句の識者が競うわけだから。
「左目」という具体的な根拠があるのではなく、何故か左なのは、左翼ということだろうか?葛原妙子は「右」だったからあながち無意識的な感覚かもしれない。絶対「左」だな。
「料峭」が難しい季語だが、春の冷たい風だそうだ。「かもめ」は寺山修司の歌からだという。「人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ」。「かもめ」が眉毛みたいなものからの連想だろうか?寺山の歌の引用が好みなんで、堀本裕樹の勝ちだな。
穂村弘の歌はそれほど特徴がないようだが二句切れ。二句切れから、転調していくのだが、実際は消えないボールペンの字だったりして。気がするだけじゃ消えてないよな。
「唾棄」の感覚がいいんだな。言い切りの俳句だった。これは「青き踏む」で三月頃の春の野山だそうだ。
お題が短歌寄りだったな。俳句は平凡な句だった。そうでもないか?「舌」ということで声を聴いているんだな。でも短歌の多重的な声の勝ち。
ちくわの穴にいれるのは胡瓜だろう!チーズなんかいれるかな?ブルジョア小学校という気がする。
「挿入歌」は何を思い出すだろうか。最近、モリコーネの映画を見たので「荒野の用心棒」とか。それだと「からっ風」だな。連想する楽しさで俳句の勝ちか?
ディックの小説を出してきたから短歌の勝ちなんだが、「金亀虫(こがねむし)なのか。カメムシかと思った。金のカメムシいそうだな。
短歌はテーマで決まるな。俳句はテーマにあまり左右されないような気がする。というか俳句は季語でイメージが決まってくるのか?
映画短歌
白熊杯の短歌部門も兼ねて、去年見たベスト映画か冬関連の映画で三本の映画短歌でいいかなと。
句跨りは苦しいか?
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