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春節や富岡多恵子も歌手になる

春節のオブジェ。横浜中華街が近くだから春節の飾りが多い。2月は意外にイベントが多い。春だからかな。旧暦だと正月から春だ、という気分はよくわかる。もう春だよな。春の準備が何も出来ていない。春はやってくるものなのかもしれない。幸運もやってくる。

最近は深夜に起きているから昼過ぎまでダラダラ寝てしまう。それから行動だった。昨日は図書館に予約本を取りに行って、映画を観た。映画はそれほど期待していなかったのだが、面白かった。フランスの王族の話(ゴシップネタ)。あとで感想書く。

これは『源氏物語』を読んでいるからかもしれない。田辺聖子『新源氏物語』は須磨に入った。このへんの光源氏はどうしようもないクズ男だと感じる。やっぱ若紫を手籠めにしながら他の女にもいろいろと手を出すという。これは権威なのかな。アクセサリーみたいな。早く橋本源氏読みたいな。田辺聖子源氏が終わったら読み始めようかと思っている。

松本清張『昭和史発掘』は維新軍が叛乱軍となって、青年将校たちの絶望的情況かな。松本清張は資料を綿密に読んでいくのだが、その中でも安藤大尉という一人の男を際立たせているよな。部下思いで、上官からも信任厚い。企業戦士だったら理想的なエリート幹部候補生なのだが、その挫折というような。しかしそんな安藤大尉も澤地久枝『妻たちの二・二六事件』を読むと家庭を顧みない駄目夫だった。視点の違いが面白い。

『源氏物語』も女たちの視線から見ると源氏はもてもてのプレイボーイの王侯貴族ということになるのだろう。各帳は、女の視点から読むようになされているのだ、その視点が強くなるのは須磨からだろうか?若紫を京に置いて新しい女を引っ張ってくのだから。その子供まで。そして若紫に教育係を言い渡すのだ。これほど残酷な男もいないのだが。若紫は慕っている。その関係は現在でもけっこうあるのかなと思ったのは矢川澄子『おにいちゃん』を読んだ時。澁澤龍彦が光源氏的だった。

これはファンタジー脳みたいなものか。今の世の中ますますファンタジー脳になっていくのもあまりにも現実が辛すぎるのかもしれない。

昨日借りた本の中で『短歌と日本人 4』なんてなんで読みたいと思ったのかと予約しながら不思議に思ったのだが富岡多恵子が亡くなって、それで読みたいと思ったのだ。『詩歌と芸能の身体感覚』という特集本で始めに出ている対談が面白い。歌人と小説家というような、富岡多恵子と町田康がゲストみたいな(というか富岡多恵子の編集だった)。

富岡多恵子が坂本龍一と組んで歌手になった話とか。カラオケの延長みたいなことだったのに、その作曲家が坂本龍一だったとか。You Tubeに動画が上がっていてそれを見たのだった。おおらかな時代だよな。

あと歌人の道浦母都子が都はるみに提供した歌という『邪宗門』は都はるみの希望で短歌の言葉が多いのだそれでもいいということだった。それは都はるみが女が絶える歌ばかり歌わされて嫌になったから違う女の歌を歌ってみたいと希望で歌人の道浦母都子に白羽の矢が立ったということだ。

今日の一句。

春節や富岡多恵子も歌手になる

今日も俳句ではないな。記事の内容そのままだった。

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