シン・俳句レッスン45
夜の金木犀。夜の帰り道あっちこっちから金木犀の香りがしてくる。中毒になりそうなぐらいに。今夜の一句。
呑兵衛さんのイメージで。
早速Bardで批評。
随分褒められた。金木犀効果かな。この調子で今夜も俳句レッスン!
芭蕉の繰り返し表現
「芭蕉の呼びかけ表現」にもリズムを作るというのがあったのだが、俳句の口承性はリズムにあり、芭蕉も句作に対して「舌頭に千転せよ」(口承で千回繰り返してみよ)と言っている。何より大事なのが詩のリズムであり、その一番簡単な方法が言葉を繰り返すことなのである。
芭蕉の句は単純さの中に複雑さがあるが、「ならななえしちどうがらんやえざくら」なが繰り返されて七が八につながっていくリズムをつくっている。二句目は言葉の繰り返しだが受動と能動で意味の対比でリズムを生み出す。歌の繰り返しは呪術性の名残だという。繰り返しよって聞き手に言葉を印象付けるのだ。
また言葉を強調するレトリックでもあるという。
また昔話の繰り返しなどはくつろぎをもたらすという。
一般に省略が表現の冗長性を低める効果があり、反復はその逆のように思われやすいが、効果的に使えばそうはならない。
重奏的イメージが桜をより引き立たせている。
異端の系譜
川名大『昭和俳句 新詩精神(エスプリ・ヌーボー)の水脈』も第三部に入った。前回、中谷寛章『俳句の成熟』ついて全共闘運動がその背景としてあったのだが、その後は反動として伝統俳句が盛り返していく。虚子の言葉。
それによって俳句の自己目的化と固定化があり、俳句の内実としての自意識は必然的に俳句を変革していくことになる。俳句の近代化が正岡子規によって俳諧(連歌)から発句として切れるために自立していくのが「俳句」だったのだ。俳諧に戻ることは、反動的だと言わねばならないとするのが新興俳句だった。まずなによりも近代詩として独立すること。
その流れで新傾向俳句運動と新興俳句運動があった。新傾向俳句運動は河東碧梧桐から自由律俳句として、荻原井泉水から尾崎放哉、山頭火という俳人を生み出す。
彼らの俳句は極端な〈私〉俳句であり、虚子の「ホトトギス」からは生まれるはずもなく排除された。
一方、新興俳句も山口誓子の映画からのモンタージュ理論からの連句や高屋窓秋の新詩精神(エスプリ・ヌーボー)によって個人の内面を切り開いていく。
高野窓秋はまだ「ホトトギス」の影響下であり季語俳句となっているが、それをさらに推し進めたのが高屋窓秋が「ホトトギス」を脱退して作った「馬酔木」に引き継がれる。その中で新興俳句の面々が活躍する時代となるのだった。
しかし「京大俳句運動」によって「新興俳句」は弾圧されると、戦時下では「社会性俳句」は詠めなくなっていく。その隙間を突いてでてきたのが「人間探求派」であった。
さらに戦後になって「社会性俳句」も復活して、金子兜太「造形俳句」などが作られていく。
金子兜太の「造形俳句」は新興俳句の遅れとしてやってきたもに過ぎないと読むのだ(川名大の「異端の系譜」)。
乱反射
金子兜太の批評を受けて新たな戦後派世代からポスト戦後派世代へと受け継がれていくのが『現代俳句入門』批評する坪内稔典の繋がりかもしれない。
「個の凍結とその時代ー昭和四〇年代の問題」宇多喜代子
「〈私〉の居ない風景」足立悦男
は前回見ての通り。
今日は続けて、
「〈発句〉の変貌ー切字論・序説」仁平勝
「戦後俳句と西洋詩の交差ー高柳重信と翻訳詩」を見ていく。
「〈発句〉の変貌ー切字論・序説」仁平勝
俳句を俳諧的付句としての発句から、独立して「俳句」に成っていったのは正岡子規の近代化を踏まえてなのだが、そこ子規の系譜を継ぐと宣言する坪内稔典における「発句形式」についてラジカル(根源的)な問いとして「連歌」からの切れの空白は日本語表現の根底にある表現の型(伝統)を乗り越えようとするものであり、季語に於ける自然の成り立ちよりも切れによる自我発露の方が重要であるという。それは金子兜太の「造形俳句」を受け継ぐものであるかもしれない。
それは良基『連理秘抄』のドグマ。
これは和歌的な雅な世界から江戸の滑稽さやイロニーと言ったブルジョアジーの台頭する世界であった。個の確立である。
しかし山本健吉は様式美として切字を求めるあまり、美学的観点から述べており、その後にはマンネリズムに陥っていく。
結局マンネリズムを否定しながら、そこに俳句固有の型があると見るのだ。これは俳句入門書のハウツー本にありがちなことではあるが、そこから抜け出せないでいつまでも型がついて廻るのだ。
山本健吉が「かな」の形式化でないとしての例で「軽く言い取って心を残さぬ心にくい『かな』である」とする凡兆の句は滑稽さを呼応しながらのイロニーである。それは万太郎の「かな」とは明らかに違うものなのだ。
万太郎の「かな」は詠嘆を基調としているのだ。山本健吉は定形の美学的形式化に囚われている。例えば現代俳句の「かな」を用いた俳句には彼の理論は通用しない。
「戦後俳句と西洋詩の交差ー高柳重信と翻訳詩」夏石番矢
日本の近代詩で翻訳詩が新しい日本語を生み出し、それが詩的言語として流用されていく。堀口大学『月下の一群』はそうした翻訳詩である。その中にフランス象徴詩人グーグルモン『水車』は特に当時愛唱された。
そのグルーモンの詩から高柳重信の作品が生み出される。
高柳重信は堀口大学『月下の一群』を病弱な青春時代に読み(特に気に入ったものは◯印が付けられていたいう)。それを自身の境遇に置き換えていった。『水車」はシオモンといは「シモーヌ」という女子との恋愛詩に繋がるという。高柳重信が煩悶する青春時代にあって影響されてもおかしくはない。
さらに同じ頃の作品では「谷」にポーの「不安の谷」(日夏耿之介「幽谷不安」)の影響も感じさせるという。
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