シン・俳句レッスン44
日記の使いまわし写真。秋蝶だな。
と今朝の日記(12日の日記)で作ったのだが(日記は手違いで削除してしまった)。これだと黒揚羽だろうということで改作。
早速Bardで批評。
改作ポイント。秋蝶→紅葉、小町の夢→小町の愛、青い海→夕陽の海とか。難しい注文だ。
これで良くできましたになったけどイマイチだ。紅葉と夕陽がありきたりだし、小町の愛は入れられなかった。Bardは俳句はあまり得意じゃない。短歌の方がいいのかもしれない。遊んでいる場合じゃない。日記も削除してしまうし。
芭蕉の呼びかけ表現
朝の一句から取り入れているのだが、呼びかけ表現にすることで俳諧の精神に繋がるしモノローグ的独白にはならないというような。詠嘆の「かな」とかもっとも駄目な部類で自己満足もいいところだと言う(そこまでは言ってないか?)。呼びかけ表現にもいろいろあるのだが、説明が難しいので芭蕉の例題から見ていこう。
「捨子に秋の風いかに」が対詠的発想なのだが「猿を聞く」が風狂とはどういうことだろう?詞書にヒントがあった。芭蕉が捨子を見捨てたときに猿の鳴き声がしたということだという。
こんな感じか?
西行の歌を踏まえた一句の共感だという。
芭蕉の呼びかけ表現に劇的パフォーマンスとして武士を演じるというのがあるのだ。それはドン・キホーテのような滑稽としてだろうか?
ほととぎす(馬子に見立て)に馬を用意せよと問いかけている。言葉によるパフォーマンス表現とする。
業平になりきることで風狂を装う。この場合業平に問いかけるよりも業平の歌に問いかける。
虚構の場所に問いかける。
「胡蝶の夢」から『荘子』に俳諧を問いかけたもの。
超越的世界への呼びかけ。芭蕉俳句の「も+命令形」は次元不可能な命令形に使われるという
より情感を込める表現。
呼びかけ表現が、他者に対して共同体(座)の意識への呼びかけであり、挨拶だとする。
その後に他者への発問が自己への発問となっていく。
中谷寛章
中谷寛章『俳句の成熟』にお手上げだった。
川名大『昭和俳句 新詩精神(エスプリ・ヌーボー)の水脈』の中谷寛章『俳句の成熟』がチンプンカンプン。大岡信の詩論から俳句論になって、外部からの自立を促す声(「第二芸術論」)は結局自己否定にしかならなかったというような。その反動から詩人の意識を後退させることによって俳句を書き続ける権利を確保したとか。
中谷寛章(ひろあき)は全共闘世代の俳人だった。31歳で夭折したのが、自殺かもしれない(病死だった)。そういう時代との関連性を大いに感じるのだが、よくわからないのだった。金子兜太「社会性と存在」で社会性俳句の批評もあるようなのだが、このへんが社会性俳句の極北なのではないかと思っている。
「社会性俳句論の行方」参照。
乱反射
川名大の俳句史だと中谷寛章の後に坪内稔典が来るのだが、このへんも俳句史の中ではよくわからない。坪内稔典『現代俳句入門』はちょっとお硬い理論ばかり掲載されているのだが、この辺の試行錯誤があったと思われる。
「個の凍結とその時代ー昭和四〇年代の問題」宇多喜代子
個としての戦後問題をさかんに議論出来たのは昭和四〇年代を分岐点として、大きく変化していく。それは高度成長期によってもたらされた豊かさが個人主義を生み出すのだけれども政治には無関心になり消費社会へと進んでいく。そんな中で俳人の結社化は進み余韻のある主婦層を取り込んでいく。そして消費されるように次々と句集が発表される。そんな中で史として刻まれる句集は、河原枇杷男『鳥宙論』と阿部完市『絵本の空』を上げる。
「身のなかの」風景は、暗く、典型的な日本の風景だという。個の魂を日本の原風景に埋没させていく俳句は個の凍結にはっきり書き換えられたとする。
阿部完市はシュールレアリズムの手法を探りながら無意識の中に個の安定を図る境地を見つけ出したのか?
「〈私〉の居ない風景」足立悦男
柄谷行人の『意味という病』から「マクベス論」の中の一節を持って始まる。
「意味という病」に対して、この時代の軽やかな風俗を溶かしながら嘲笑う試みがある。
最後の句は「馬鹿」が透けて見えるが。ただなんとなく意味を感じ取ってしまうこともあるような。それが『意味という病』に憑かれた近代人ということなのかもしれない。坪内稔典もその前の『春の家』では意味づけを期待して作句していたという。
近代俳句から現代俳句への試みは「意味づけ」を超えたところにある。
「現代俳句」が〈私〉性を捨て去ったとき、作品の自立性を得たとするのだが、これはちょっと疑問。なぜならジェンダーとして役割を絶えず求められる社会になったからだ。例えば日本人とか外国人とか、誰々のママとかパパとか。課長とか女子社員とか。さらにそのような社会の中で階層化されていく中でむしろ〈私〉性は求められているのではないかと思う。ネット社会で匿名でいられる自由はあるが紐付けられる身分はあるのだ。その中で自分自身は誰だかわからず虚構の世界に埋没していくことはあるだろう。
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