見出し画像

しろばなをちらしつづけやさるすべり

白い百日紅が咲いていた。百日紅とイメージするのは赤の燃えるような夏の花だが、白い百日紅の幻想性を詠んだ飯島晴子の句が忘れがたい。

さるすべりしろばなちらす夢違ひ 飯島晴子

飯島晴子は6月に自死しているのだ。しろばなちらすが咲くことよりも散ることの方が白いさるすべりの運命のように思えてくる。清楚なイメージの中にさるすべりの生命力を感じるのか?これから百日間も咲くよりも散り続けるのかと。桜のイメージが夢違いなのだろうか?

しろばなをちらしつづけやさるすべり 宿仮

今日の一首。

さるすべり
しろばながさき
夏到来
百日経てば
秋の風かな

あまりやる気がなかった。NHK短歌を観なければ。

昨日は図書館に行って三冊返却、四冊借入。今日から横浜図書館は20日まで休みに入るのだった。昨日図書館に行けて良かった。『窯変源氏物語10』も借りられたし。当分行かなくていいというか、開いてなかった。

図書館で『詩の本1詩の原理』を読む。詩人による詩の評論か。近代詩について知らないことが多かった。大岡信『日本近代史の流れ』。現代詩が「新体詩」からはじまったのは、それまで詩といえば漢詩であり、俳句や短歌(和歌)は詩というイメージは持たれて無く歌というのに近いのかな。詩という形を成したものが外国詩として翻訳されたのが「新体詩」と新しいスタイルを持ったのだ。それは小説の言文一致という散文の運動と連動していたようで、文語でどう新しい詩を伝えるか苦心したという。その過程で雅語を使って翻訳する美文調の新体詩が登場してくるのだが、それは言文一致の理念からほど遠いものだった。

北村透谷『楚囚之詩』から藤村『若菜集』によって日本の抒情詩の流れが、上田敏『海潮音』や堀口大學『月下の一群』という翻訳詩が朦朧体というような浪漫主義的な詩を形作っていく。その中で忘れてはならないのが、薄田泣菫と蒲原有明だという。ふたりは文語雅語を用いて文語体の詩を確立していく。それは日常から離れた浪漫主義的古典主義というような詩で、その反発が口語自由詩や文語でも中也や朔太郎のようにわかりやすい詩を生み出していく。

また日本の近代詩は聖書の翻訳も大きいというのは今まで考えたことがなかった。欧米の文学の中心はキリスト教があるのである。そのイメージ世界として聖書が影響を与えなかったはずはないのだ。モダニズムのイメージは聖書的世界観だった。

『光る君へ』を観た。宋の時代なんだな。北宋ということだった。唐の後というかその後に南宋になってモンゴル帝国だからかなり不安定な時代だったのだろうか?中国の歴史も読みたいと思うが難しそうなので今のところTVドラマ『三国志 ~司馬懿 軍師連盟~』を観ているが今まで観てきた「三国志」のドラマと違う。

朝足が攣って起きる。足だけじゃなく腹筋とか。体中が固まっている状態なのだろうか?すぐに立てないというのも足が攣るからだった。

久しぶりに映画を見に行く。怪我をして以来だった(一週間ぶり)。まあ楽しめた。

つづけてNHK俳句を観てから朝のレッスン。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?