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落語「柳田格之進」と映画『碁盤斬り』の違いについて 


落語は落語家という一人の話者が語るエンタメ(談志は「イリュージョン」という)だった。映画は今では最大のエンタメかもしれないが、総合芸術(エンタメ)としての映画と古典落語の違いを楽しむのも興味深い。たぶん、これは私だけの観点であり、大多数の映画ファンは『碁盤斬り』に高評価を与えているのだ。そこのところをお見知りおき下さい(舌を噛みそうである)。

まず原作は落語のほうなのだ。題は「柳田格之進」という侍の名前だ。落語の題名になるほどだからただのヒーローとは違うのだろう。そこは江戸の町民文化が宿っているのだった。

この侍というのが堅物男で、正義感が強いのはいいのだが、その自分の名誉を守るために吉原に娘を売ってまでして、自分の論理を押し通そうとするのである。悪いのはこの侍ではない。質屋の主人が悪いのだ。ただその善悪の問題だけでもなかった。映画では質屋の主人を國村隼が演じているのだった。まさに悪代官と越後屋という感じなのだが、そういう映画でもなかった。二人の関係は碁友というところだ。

映画での國村隼の役どころが越後屋のように思ってしまうのは、それまでの國村隼のキャリアからだろうか?映画を見ながら思ったのは國村隼がシェイクスピア『ベニスの商人』をやったらハマるだろうなということだった。

『ベニスの商人』の「萬屋」ということならいかにも時代劇としてありそうな話だった。「萬屋」の主人が侍の娘を見初めて、なんとか手に入れようとする。そこは吉原の女将とつるんでの罠を仕掛けるのだった。そういう時代劇なら「必殺シリーズ」にありそうだった。時代劇の映画はチャンバラを見せるものとしてのエンタメならば復讐劇が組み込まれるのは仕方がないことなのだろう。

落語はそうしたチャンバラ・シーンを必要としない。だから復讐劇もないのであった。柳田格之進の娘が女郎屋に売られるのは格之助の正義のためだった。それがなぜ正義の潔白になるのかわからないが、あまり議論が得意ではなかったのか?無くなった金があれば全て元通りの立場でいられたとか?よくわからないのは娘を女郎屋に売るという行為である。今では考えられない。しかしあの時代は家父長制の男尊女卑の時代だった。娘の名誉なんてなかったのだ。ならば娘が父の無実を証明するために犠牲になったということも考えられるか?

問題は、その金が大晦日の掃除に出てきたことである。それも「萬屋」の主人のミスだった。主人のミスは番頭の罪でもあるから、首を切られてても仕方がない。格之助とそう口約束してしまったのは番頭なのだから。それは言葉の綾ということもあるだろう。やたら相手が正義を主張してくるので、その正義を覆すには身体を賭けるしかなかった。そのことは賭け碁という勝負と通じることでもあった。格之助の中にある勝負師の一面はそんなところかもしれない。

そもそも賭け碁が面白いのは金が絡むからだった。金が絡む碁を嫌う格之進なら、そうした勝負は避けたはずである。その勝負に結果として娘を賭けたことになってしまうのだ。とんでもない父親である。

一方「萬屋」の主人と番頭の関係は奉公人と主人を超えた情のある関係だった。だから首を斬られる場面でお互いに自己犠牲をしてでも助けたいと思ったのだ。その人情に格之進は目覚めたのである。赤の他人同士が自己犠牲の精神を発揮してお互いに庇おうとする。自分はそういう自己犠牲の精神はおろか娘を売って身の潔白を立てたのだ。落語は、その親子の情を町人から教わる侍の構図である。そこで格之進は目覚めた。それまでの勝負師としての生き方が間違いではなかったのかと。それで碁盤を斬るのだった。「碁盤」は侍である格之進の勝負師としての生きる場であった。

それを斬り捨てれば長屋の一員として、町人たちの仲間になれたのである。娘も女郎屋から見受けして(その金は「萬屋」の主人が出す)。ここに不合理なことはないのだ。ただ娘は傷物として人生を送らねばなるまい。現実の不条理さはそんなところだが、番頭が嫁にするということで手打ちにされるのだ。それが結婚というハッピーエンドだった。落語という喜劇の中で見事に江戸町人文化の情が示された劇だったのである。

格之進は武士としての名誉を棄てて長屋の町人の一人となるのはそういうことだった。映画では女郎屋の女将の情で娘が救われるのだが、そんな甘い女郎屋の女将はいないだろうと思うのだ。それを示したのが抜け人である女郎をリンチするという非情さを持った女将の一面だったのだ。映画にするならハッピーエンドよりも悲劇となるべきだった。誰も救われないのだが、その責は格之進が負うべき負債なのだから。


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