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声に出して楽しみたい俳句や詩のことなど

『作家と楽しむ古典』松浦寿輝 (著), 辻原登 (著), 長谷川櫂 (著), 小澤實 (著), 池澤夏樹 (著)

芭蕉・蕪村・一茶、そして近現代詩・俳句へ――。数々の名句・名詩の魅力や読み解き方、歴史を、第一線の作家と俳人がやさしく深く講義する最良の詩歌入門。人気シリーズ第5弾。

池澤夏樹個人編集の日本文学全集『おくのほそ道 与謝蕪村 小林一茶 近現代俳句 近現代詩』のガイド本。全集を読んでなくてもそれぞれの俳人の読みどころを語っているので興味深い。池澤夏樹だけは「近現代詩」だが、声に出して読みたい日本の詩という趣。日本の詩歌には七五調が根付いている。

「松尾芭蕉/おくのほそ道」松浦寿輝

松尾芭蕉『おくのほそ道』は紀行文だが、フィクション的な物語性が強く、それは芭蕉が構成した文章なのだ。紀行文というと紀貫之『土佐日記』があるが、日付に沿って描いていった。『おくのほそ道』との共通性もあるが、より編集されたドキュメンタリーになっている。

『おくのほそ道』は、風雅という旅を体現した芭蕉という一人の俳人のロード・ムービーだということ。最初に古人の歌人の歌枕を訪ねる意義の序文から始まる。中国の漢詩(李白)を引用して、月日は一瞬に去っていく。そこで李白ならば、酒を酌み交わして人生を楽しもうとなるが、芭蕉は旅の中に風雅を求めていく修行僧となる。武士道に通じる、死がその先にある。そこ(風雅)から出発していくのだ。その後に「軽み」に目覚める。

行く春や鳥啼き魚の目は涙

千住の俳句の「行く春や」は、最後の大垣(滋賀県)の「行秋ぞ」と対になっている。

蛤のふたみにわかれゆく秋ぞ

そして紀行文の構図が平泉を頂点として、太平洋側の松島の陽気な風景と日本海側の象潟の暗い風景を対にして描くことによって対称性を生み出す。

松島の月は、歌枕として「百人一首」にも出てくる絶景地。

松島や雄しまのあまも心あらば月にやこよひ袖ぬらすらむ 二条院讃岐

その絶景地は、杜甫が詠んだ中国の景勝地「洞庭湖や西湖」にも劣らないと書く。紀貫之が漢詩に対して和歌で張り合ったのと似ている。どこまでも日本人を体現した文章だ。そして、芭蕉はその景勝地の素晴らしさに俳句を作ることが出来なかったと。

松島や ああ松島や 松島や

これは芭蕉が詠んだと言われているが、この句は観光宣伝のキャッチコピーだった(江戸時代)。芭蕉は俳句を詠まなかったのは紀行文で書いている通りでそのことによって絶景地の素晴らしさを伝えようとした。むしろ芭蕉の弟子である曽良が詠んでいる。

松島や鶴に身をかれほととぎす 曽良

鶴の目出度さを松の縁語でかけたもの。この句も「百人一首」の和歌を踏まえていた。当時の芭蕉一門はそのぐらいの教養があった。

ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる 後徳大寺左大臣

そして、芭蕉は平泉で鎮魂の俳句を詠む。曽良の俳句を挟んで三句。

夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉
卯の花に兼房見ゆる白毛かな 曽良
五月雨を降り残してや光堂 芭蕉

戦に明け暮れる武士の儚さと平泉に建立された光堂の永遠の美の尊さ。ここまでが「風雅」の旅の頂点だとする。風雅と言えば芭蕉忍者説もありますね。あっちは「風魔」だった。

象潟は、裏日本という言葉があるように、表側の松島と比べて影の部分を記述して、

松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。さびしさにかなしびをくはえて、地勢魂をなやますに似たり。

そして、中国の美女、西施に喩えて一句。ここは小野小町だろうと言いたくなる。

象潟や雨に西施が合歓の花

市振では遊女のエピソードが出てくる。これは短編小説のような趣がある。芭蕉は遊女のお供するのは断ったのだが、後から不憫な気持ちが起きてくる。そこで一句詠んだ。

一つ家に遊女もねたり萩と月

また「尿前の関」での一夜の出来事を詠んだ句は、「風雅」の武士から庶民の暮らしへと降りていく芭蕉の「軽み」を体現している。

蚤虱馬の尿する枕もと

「与謝野蕪村 郷愁の詩人」辻原登

与謝野蕪村を郷愁の詩人と言ったのは、萩原朔太郎。モダニスト蕪村の読みとして、「サウダーデ」という。「サウダージ」が訛ってしまったのだっと思ったらポルトガルのものは「サウダーデ」で、ブラジルのものを「サウダージ」というんだそうだ。私はボサノバ好きだから「サウダージ」派だった。

モダニストしての蕪村は、こんな俳句。

菜の花や月は東に日は西に
梅咲ぬどれがむめやらうめじややら

菜の花の句は、蕪村が住んでいた大阪は菜種油の産地であり商業都市の中心地を詠んだものだが、時空が大きく動いていく俳句だが「万葉集」に倣ったものだという。

東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ 柿本人麻呂

梅の句は、当時本居宣長が『字音仮名遣』で梅は「うめ」ではなく「むめ」と読んだとしてのを、上田秋成がどっちでもいいじゃないかと言った論争を揶揄した俳句であり、どちらも蕪村の教養が伺われる。また辞世の句は、

しら梅に明る夜ばかりとなりにけり

も「白梅」ではなく「しら梅」としたのは、「しら」にオシラサマの意味があり、霊性を詠んでいるのである。

蕪村の俳句の教養主義的なものは俳句だけではなく絵師としても一流であり蕪村が理想としたのは陶淵明の桃源郷の古詩『桃花源記』であり、漢詩がまだ定形になる前に古詩に倣った『春風馬堤曲』十八首がある。ほとんどそうした理解があって読める俳句なのだ。


「小林一茶 近代俳句は一茶に始まる」長谷川櫂

芭蕉や蕪村の俳句は、注釈が必要なほど教養主義的なものだが、小林一茶になって初めて注釈なしに我々が読める俳句になったという。一茶の俳句は大衆化の問題を含んでおり、それまでの古典にしても俳句にしても一部の限られた者がやる文芸にすぎなかったのだ。

日本の大衆文化はすでに江戸時代に現れてきており、明治が文明開化としたのは西欧化ということでしかない。日本の近代化が始まったのは江戸時代なのだという。そうした文化の中で古典の知識なしに俳句を詠んだのが一茶だった。それは一茶が「子供向け」とか「ひねくれ者」として揶揄されたことで芭蕉・蕪村に比べて一段低く見られているのだ。

近代市民が自己中心の考えを持つとするならば一茶はまさに近代市民であり、日常語で書かれた説明のいらない誰にもわかる俳句を目指した。

やれ打つな蝿が手をすり足をする
やせ蛙負けるな一茶これにあり
天に雲雀人間海に遊ぶ日ぞ
梅干しと皺くらべせんはつしぐれ
下々も下々下々の下国の涼しさよ
大蛍ゆらりゆらりと通りけり

近代俳句は正岡子規からというのは違うという。では正岡子規の決定的な所は写生句ということなのだ。一茶は「日常用語」と「心理描写」ということで始めたのだが正岡子規は想像力は駄句も多いとして、写生にこだわった。しかし写生だけだと二流の句しか出来ないこともわかっていたという。二流の俳句を量産することが大衆化だったのだ。

現代は俳句人工も増え短詩で誰でも気楽に作れてしまう。一億総中流時代を経て「末期的大衆」社会になっているという。批評が絶滅に近く売れるものばかりを求める時代の俳句とは?

「近現代俳句 さまざまな流れをこそ」小澤實

すでに「小林一茶」で見てきた通り、近代俳句を正岡子規から始めない。江戸時代からの連続性で見る。井上井月(いのうえせいげつ)から夭折の俳人田中裕明と攝津幸彦まで。その中で誰かを選ぶとすれば金子兜太になる。兜太は戦争体験があり、その傷を背負って俳句を作り続けた。

梅咲いて庭中に青鮫が来ている 金子兜太

平和時の梅を見ながら、戦時にトラック島で死んだ仲間を思う。

文人俳句として、尾崎紅葉や芥川龍之介など。なお文人短歌とは言わないらしい。俳句は差別的な感じがするな。まあ最初に「第二芸術」と差別されたのは俳句の方だけど。

炎天や切れても動く蜥蜴の尾 芥川龍之介
木がらしや目刺しに残る海のいろ 芥川龍之介

新興俳句

水枕ガバリと寒い海がある 西東三鬼
首のない孤獨 鶏 疾走るかな 富澤赤黄男 
頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋

「近現代詩 歌から詩へ 耳で聴く言葉の楽しみ」池澤夏樹

古事記の歌の元は伝承である。宴会のような場で歌われた恋の戯れ歌が天皇と結び付けられる。和歌が元々相手に直接顔を合わせず心を伝える手段であったのだ。それは手本とされ様々な歌物語を生んでいく。日本の文芸の大本は詩歌にあったのだ。それは七五調という調べは今なお交通安全の標語からキャッチコピーまで使われている。

高村光太郎「樹下の二人」、堀口大學「魂よ」。この魂は心が人の中にあるものだとすれば、外に出ていくものである。心身二元論?『源氏物語』の六条御息所の生霊と共通する。金子光晴「洗面器」は、伊藤比呂美の朗読で聞いたのが印象的だった。中原中也のリズムと茨木のり子の女性ならではの口語詩。


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