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精神科医の境界例の映画か

『人間の境界』(2023年製作/152分/G/ポーランド・フランス・チェコ・ベルギー合作)監督:アグニエシュカ・ホランド 出演:ジャラル・アルタウィル、マヤ・オスタシェフスカ


「ソハの地下水道」などで知られるポーランドの名匠アグニエシュカ・ホランドが、ポーランドとベラルーシの国境で“人間の兵器”として扱われる難民家族の過酷な運命を、スリリングな展開と美しいモノクロ映像で描いた人間ドラマ。ベラルーシ政府がEUに混乱を引き起こす目的で大勢の難民をポーランド国境に移送する“人間兵器”の策略に翻弄される人々の姿を、難民家族、支援活動家、国境警備隊など複数の視点から映し出す。

「ベラルーシを経由してポーランド国境を渡れば、安全にヨーロッパに入ることができる」という情報を信じ、幼い子どもを連れて祖国シリアを脱出した家族。やっとのことで国境の森にたどり着いたものの、武装した国境警備隊から非人道的な扱いを受けた末にベラルーシへ送り返され、さらにそこから再びポーランドへ強制移送されることに。一家は暴力と迫害に満ちた過酷な状況のなか、地獄のような日々を強いられる。

キャストには実際に難民だった過去や支援活動家の経験を持つ俳優たちを起用。2023年・第80回ベネチア国際映画祭コンペティション部門で審査員特別賞を受賞した。

こういう映画を観るひとはどういう人なんだろうか考えてしまう。自分もその中に含まれるのだが平常心ではいられない。

ポーランド側の妊婦が夫からそういう映像を見せられて、そんな映像を見ないほうがいいというのである。もっともな話で妊婦にしてみれば子どもの明るい未来を描いて欲しいのだ。その中で夫はノイローゼのようになってしまう。

境界上の前線の兵士には難民は厄介者だった。自国へは置きたくない存在であり、ベラルーシとポーランドの境界上で行われている現実はまさに観たくない世界なのである。

ただこれが世界の現実としてあり、日本はそうした国境線もなく知ることもない。ただニュースで難民問題を知るだけなのである。それをどう思うのか。未来の子どものために知る必要はないと考えるのか?複雑な心境である。こういう現実を観てしまうと不条理な世界なんだと虚無感に襲われる。それをケアする精神科医がいるのだ。軍隊側にも、境界上の市民の中にも。この映画をどういう視点で観ればいいのか、正直悩んでしまう。

ひとつだけ明るいシーンがあるとすれば難民として逃れて保護される家で子どもたちがラップで通じ合うとことかな。ほとんど通じ合うことがないのが国境という存在なのだが。
(2024/05/10)

映画の繊細な内容は知らずに見に行ったがけっこうショッキングな映画だ。観る人を選ぶと思うがこういう映画ばかり観てしまう。それで鬱的になったりするのだった。厭世観だから仕方がないのだが。

この映画で一番驚くのは、フィクションなのにあまりもリアルすぎる映画だからだ。その謎は帰ってからその演出方法にあるのだと知った。それは素人の役者だけど彼らが実際に体験したことを映画にしているからだった。映画の方法論でよくプロの役者ではなく素人を使う監督がいるが監督は素人の役者を使うので適材適所に彼のキャラクターをうまく嵌め込んでいくのだと思う。実際にこういう難民の映画だと経験者であるのとないのとでは訴えたいことも違うのだろう。

この映画の中で重要なのは精神分析医だと思った。それは国境警備隊の中にもその境界の市民の中にもいる。これは境界の映画だというのは、精神分析医が人間というものの境界を判断するからだろう。実際に精神にトラウマを持った者(戦争被害者とか)に対して演技療法という治療があるのだという。それに近いことをやっていたのだと思った。

国境警備隊の中にいる精神科医は、軍隊の仕事を滞りなく進めるためにそれが国家の正義のために必要なことだと説得するのだった。現実を観て、最低限の生活から未来ある社会を作るためには犠牲的なことが必要だとか。実際にこの映画ではそういうシーンが出てくることはないが、国家の正義の理論はそんなところだろう。その体制側にいる精神科医なのだから体制の正義を説くのである。

そして国境の境界の村にも精神科医がいた。彼女は国境を超えて死んでいく難民と出会って精神科医でいるよりも、活動家として難民支援をしていく。それは精神科医であるよりも命を救う医者(人間)である者として、彼女の変化がこの映画の大きなテーマになっていると思うのだ。それは「人間の境界」を見てきた精神科医が見る人から行為者へ変化する瞬間の映画なのだ。誰もが出来ることではないと思う。

ただ難民になるのは誰もが可能性のあることだと思う。日本の島国では遠いことかもしれないが、過去の植民地(満州)でそういう難民になった記録ならいくらでもある。難民というより避難民であるのなら地震大国として年中体験しているはずだ。今年も能登沖であった。ただそれに出会わなかった者はTVの向こうのニュースだと思ってしまう。このネット環境いる世界でも。

ネット環境と言えば難民の誰もがスマホを持ち、それのナビによって脱出してきているのに、そのスマホが通用しない世界があるということだった。その恐怖。世界からのニュースは閉ざされて、彷徨う。彷徨う国境ではお互いに排除合戦が行われるのだ。

それが意図的に国家が行ったこととは映画をみるまで実際にどういうものか知らずにいた。それはベラルーシ側とポーランドの間で実際にあった出来事だという。ただ難民排除の問題は日本にもある。それは数が少ないから目立たないだけで、そうしたニュースも報道されている。そのときに我々が目を閉じてしまうのは、自身の平和と生活を考えるからだ。避難民のことは国家がなんとかすればいいとか考えるがその国家がそうしたことを率先して行っているのだった。


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