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卯の花や古歌(ふるうた)腐らず文字と化す

ウノハナと思ったらネズミモチだった。卯の花は古くから和歌や俳句で詠まれてきたが「ネズミモチ」はどうなのだろう。一応季語にはなっているが、木の意味が鼠の糞という冬に実る実のことらしい。あまりいいイメージはないな。季語だと女貞(ねずみもち)と読ませるのは。実は薬にもなり貞操な女の意味だそうだ。実際にはトウネズミモチはネズミモチと違うそうなのだが。

例えばこういう花の勘違いはよくあることで、ほんとうはネズミモチだったのに卯の花で俳句を読んでしまったということはないのかな?

卯花も母なき宿ぞ冷じき 芭蕉

「続虚栗」

これがネスミモチだったら泊まりたくもない俳句になってしまう。女貞だったら遊女などは出入り禁止の宿なのかな、といろいろ想像は膨らむ。

五月(旧暦四月)が「卯の花腐し」という使いやすい季語でもあった。

卯の花の幻を見て腐らずや 宿仮

卯の花や古歌(ふるうた)腐らず文字となす  宿仮

文字で残っている古歌ということで。化石みたいなもんかな。ねずみもちではこういう歌は難しい。短歌では、

卯の花や
古歌腐らず
文字となす
ネズミモチの花
卯の花と化す

昨日観たボブ・マーリーの映画も勘違いしていたのだ。たぶんそれは最初にきいたのだが「エクソダス」で脱出の意味があり、現実からの脱出だと思っていた。

意味は「出エジプト記」のボブ・マーリー版だろうか?ボブ・マーリーの歌が『聖書』のように大衆音楽としてリズムよく乗せてしまうのは、アメリカの黒人がゴスペルで無私になるのと近いのだろう。その音楽は酔いの音楽であり、『魔の山』でセテムブリーニが批判する音楽の意味と同じであった。それがマリファナ的な酩酊音楽であるのも頷ける。レゲエのリズムは宴会ソング的な酩酊さだったと一夜に醒めてしまった。

酩酊するのは悪いことではなく、現実の苦痛から逃れるための夢でもあるのだろう。そのことは日本の古歌でも五七調や七五調を繰り返すことで、人々の共感を呼んで宴会ソングとなるわけだった。もともと田植えなどの労働作業のためのリズムだったといえば納得がいく。そしてそれは歌垣という男と女が和する歌であったのだ。

しかし和歌が宮廷内で女房文学として栄えるのはそれとは違った意味合いを持つのだった。それは短歌が七七と終了の世界を示すことで、酔いよりは醒めた歌となるのである。例えば男の申し出を断るというような。さらにそれはすでに終わった恋であって閉じられたものであるというような。そうした女房文学は、貴族社会の終焉として(武家社会の始まり)、坊主文学を生み出すのであり、百人一首で坊主が多いのもそうした理由からなのである。つまり厭世的な社会があり、その幻想に歌の世界があるということだった。

これは折口信夫『女房文学から隠者文学へ 後期王朝文学史』で書かれていることだった。内容はけっこう難しいのでスッキリ読めないのだが、だいたいそんなところだろう。

だから『新古今集』の幻想世界を求める隠者として文学というのはそういうことらしいのだ。それは塚本邦雄が説く和歌の世界から短歌の世界である。それを俗の方に落としたのが俳句ということになり、短歌の七七を落としたのだ。そこに読まれるべき高貴な心持ちよりは俗世間に塗れているのだろうか?

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