天邪鬼北風強くニット帽
繊細すぎて嫌になってしまう。ここに書いていいのかと思うのだが、パーソナルな日記ということで。
優等生タイプが苦手だった。どこの世界にも容易に出来る人と出来ない人がいるわけで。この世界は出来る人に合わせて出来ているというのは承知しているのだが、ときどき怒りみたいなものが出ててしまうのだ。
例えばそれが正しくとも、自分としてはそういうことを言ったのではないと反論したくなってしまう。それは天邪鬼という性格ゆえなのかもしれない。
だから根本的に、この世の正しき神よりも鬼の方が好きなのだ。鬼の神を妬む気持ちというか、ルシファーだな。
どうしてここまで話題が拡がってしまうのか。自分を正当化したいからなのだろう。
具体的のことを出すと「本が好き!」でボリス・ヴィアン『うたかたの日々』についての書評をアップしたのだ。
そこでコメントにエリントンは『クロエ』だと訂正されたのだ。今読むと訂正ではなくて、私はそう思うという意見だったのだが、訂正と受け止めてしまったのだ。
ただそこじゃないだろうと思ったのは「クレオール」という言葉が重要だったのだ。エリントンも私の「クレオール性」みたいなもの。その屈折が怒りとして出てしまったのだ。
話はそれだけではすまいのは、この反論に対して一気に敵を作ってしまったと感じたのは、別の部屋でも引用の仕方を訂正されるのだが、上手く出来ないのだ。それが腹立たしいのは自分の能力のせいもあるが、正しきことを間違ってしまうというのが寛容されない社会みたいな、キリスト教(一神教)中心主義みたいなことだった。
わからないのなら、わからなくてもいいけど、ほっといてくれと思ってしまうのだ。それでクラスを敵にまわしてしまう。
どこの世界にも優等生タイプという人がいて、それに反発すると無視されるみたいな。なんでそういう気持ちになったのかと思うと前日までの評価とそれ以後の評価が全く違うのだ。ここでいうスキの数だと思ってくれればいい。それが一日で極端に減ってしまったのは、明らかに異分子だったから。
それも思い込みなのかもしれない。ただそういう雰囲気には繊細なのだ。クレオール性というものだから。在日性と言ってもいいかもしれない。
『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』はそういう天邪鬼な人間をヴァイレットが上手く「手紙」にしてくれるアニメだった。暴力性があるのだと思う。それを「愛」の言葉に変えるという。そんなのは幻想だと思うが。
ETV「穂村弘 短歌という魔法(前編)」を観た。穂村弘はそういうことがわかっている人だと思ったが、全世界を敵に回してもただ一人の味方はいるというのが、架空の恋人なんじゃないのかと思うのだった。それで世界に対して大人の対応をする。
穂村弘の短歌がいい間違いや正しい語彙で書かれないのに理解される世界に住んでいるというのは短歌(定形)だからという魔法だと言うのだが。そんな魔法があるものかとも思う。
気分を変えて。
横浜図書館がやっと開館したのだが(月曜からだった)、返却と予約本を取りに行った。5冊返却で、また5冊借入で変わらない日々。たえず読まなければならない本は十冊あって、いっこうに減らない。この日はウェイリー版『源氏物語』の鈍器本(685p.)を借りた。『源氏物語』の再読をしているので。
図書館の自習室で『昭和史発掘 (7)』50p.ぐらい読んだ。
映画『ビヨンド・ユートピア 脱北』を観た。これも正しい映画だと思うのだがキリスト教的なプロパガンダ映画だとも思うのだ。作り方は上手いけど。
北風が寒すぎ。今日の一句。
角を隠すニット帽ということ。
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