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天がお怒りである

昨日は雲が凄かったね。空を見ない人にはわからないだろうが。夏という感じだ。そうか今日は七夕だった。でも本当は旧暦なんで八月なんだよな。相変わらず目眩はするけど、日中は大丈夫なんで放っておく。そういうのはいけないんだろうけどもうここまで生きたからという思いはある。病院通いで死ぬのも嫌なんで。

風呂入ったから寝る
起きた。シャキッとしないな。「ムコリッタ」の最後の方を観て朝飯。クラシック倶楽部、アラベラ・ミホ・シュタイナーのヴァイオリン・コンサート。
昼は冷やし中華

昨日はほとんど自由律が詠めてなかった。通常のつぶやきに戻っていた。

免許の講習があったので、夜は眠れないんで入眠のスタイルを考えたのだ。線香を付けて、その時間に瞑想するというもの。線香の時間は「ムコリッタ」なのかもしれないと思えて、やってみたら線香の匂いをかぎながら外の音を聴くと心が落ち着く。雨が降っていたのだが。BGMをかけると駄目みたいだった。これを「ムコリッタ・タイム」と呼ぶ。そう言えば昨日は映画レビューと読書感想文を三本まとめて書いた。

昼は講習のあと、冷やし中華も食べた。錦糸卵が入ってないのは卵が高いせいか?

冷やし中華の写真を撮ったのに写ってなかった。ここは一昨日行ったけどあいにく準備中だったのだ。

読書。『大江健三郎と「晩年の仕事」』部屋ではなかなか読めないのだが、『千夜千冊エディション 源氏と漱石 』で森鴎外と漱石の「明治の精神」が出てきて、それは明治天皇が死んだら乃木将軍が殉死したということと、それから森鴎外の歴史小説が変わったことと夏目漱石の『こころ』での先生の遺書の「明治の精神」というやつ。確か芥川は乃木の殉死については厳しいことを書いていたはずで、明治の作家と大正の作家でも思うことも違うのかと思ったぐらいで、漱石『こころ』はその芥川に対しての小説だったか?と後になって思ったものだが、そのへんは思いつきだから正確ではないと思う。

それで大江健三郎は『水死』で伊丹十三の自殺に言及しているのだが、それは個人的な問題で世代的なものではないとする。むしろ戦後民主主義が丸山眞男の政治思想の恩恵を大江健三郎の世代は受けており、それは福沢諭吉の『「文明論之概略」を読む』で知識人の専門知識を超えた討論がなされるはずだというのが、日本の縦型社会では成り立たなかった。ただ女たちの横の繋がりが日本の希望としてあるんだという工藤庸子の読みで、大江健三郎のフェミニズム的読書と言えるかもしれない。

そのなかで『水死』で描かれる漱石の『こころ』の演劇で女性三人がする演出でぬいぐるみの犬を投げて、状況劇のようなアクションを起こして観客の意見を促すというスタイルの演劇が語られるのだが、それは『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』の最後にでてくるサクラが大江健三郎の故郷の女たちの戦後劇『メイスケ母』を演じるという試みを継承するものだった。それが天皇制を信じ込んだ父と世代間の思想の違いとして取り上げたものだった。

その中で無為の者の生き方がその世代を表してしまう例えば『こころ』の先生の生き方はKの自死後は無為の日々だったのだが死ぬ理由が「明治の精神」という理由付けが出来たというような、このへんを考えて見るのも興味深い。例えば昭和天皇が亡くなったときに殉死しようと思った人はいなかったわけで、それが戦後民主主義の思想となっていたのだ。


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