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雲ばかり空を眺めて白昼夢

ほんと雲ばかり撮っているな。雲を見ると安心する精神作用があるのか?空ばかり見ていても何もないのだが。

栗原康『大杉栄伝 永遠のアナキズム』は読了。短い感想を読書メーターに書いた。

アナーキズムというよりは大杉栄の魅力を伝える評伝。大杉栄のアナキズムは「相互扶助」ということに尽きるのだが、それは昨今のように権力側が与えるものでもない。それは奴隷と同じという。その中に喜びがなければということか。苦痛ばかり言い立てる道徳などクソ喰らえというあっぱれさ。そのためには命さえ惜しまぬという生き方なのか。大杉栄もそうなのだがその後の仲間たちにも言及される。馬鹿ばかりだ。でもそれが魅力。なんだろう子供時代の遊び仲間みたいなものだろうか?大人になるとやたら損得ばかりになる。

もう少し突き詰めていきたい。最近観たレーニンのマルクス主義とかも権威主義で上から与えられてものは奴隷状態であるということだ。今そういう道徳が蔓延っている。もっと自分のやりたいことをやろうということ。そういうところでは勇気付けてくれる本である。

芥川の青空文庫を3つほど読んだ。芸術についてとキリシタンものと中国の故事もの。それぞれスタイルは違うが芥川も一つの美=芸術にこだわってがんじがらめになっていたような。夢=芸術でいいのだと思う。

図書館で大江健三郎『臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ』を100p.ほど。最初にそのぐらい読めれば一気に読める指針ではある。ポーの「アナベル・リイ」からナボコフの「ロリータ」に展開していくある女優の話。映画製作の話は伊丹十三が大江健三郎『静かなる生活』を描いたことと関連しているのだろう。最初に伊丹十三の自殺の話が出てくる。その面から考えると面白そうだ。

そもそもナボコフはそれほど好きでもなかった。それはカフカ『変身』の虫に対する見解の違い。ナボコフはその絵を描いてしまうのだ。馬鹿かと思ってしまった。そもそもカフカが虫に変身した社会(家族)の関係性の見方を小説にしたのにその主人公を絵にしてどうするのかと。そのへんの形あるものと形がないものの違いか?言葉は形がないもので、そこから美的なものを求めるとエロスになるのだが自分本位になっていくものだ。『ロリータ』なんてその最たるものだと思うのだが。それはエロ好きでも違うよな。熟女好きと。最近はそれは母性を求めているのかと思うこともある。

小島信夫『抱擁家族』はまさにそういう小説であるのだが日本的な母性がアメリカの物質主義(資本主義)みたいなものに飲まれていく。その物質的豊かさの中で癌になった妻と夫の関係性を描いていく。「隠喩としての病」か?

図書館で『ソクーロフとの対話』を借りた。魂というものについての映画論。面白いが難解だ。ひとつだけ面白いと思ったソクーロフの話は、延々と男女の恋愛が語られ結ばれる最後に船に乗り込む(別天地に行く?)。ハッピーエンドで終わる映画だが、その船に書かれている文字が「タイタニック」とクローズアップされる。そういう映画を撮りたいという。

それはソクーロフの『孤独な声』を見たときに感じたものだった。最後の「タルコフスキー」のキャプションで映画が反転していくのだ。すでにそこには連帯があったのだ。映画という連帯。

あとソクーロフがやたらと色調を変えるのも現実というよりも夢の世界として絵画的表現として描きたい拘りがあるということだった。でもソクーロフの映画は眠くなる。

昨日も『日陽(ひび)はしづかに発酵し…』を見たけどほとんど寝ていたように。その中で断片(映像)が発酵していくようなソクーロフの映画だったような。あとで感想書けるかな?この線だった。

意識に訴えるのではなく無意識に訴えてくるのかな。今日の一句。

雲ばかり空を眺めて白昼夢

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