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振り向けば銀杏黄葉の風の舞い

映画を観たあと横浜関内を散歩。

日本大通りの銀杏並木。昨日は月曜日だから人は少ないと思ったけどしゃしんを撮ろうとするとやっぱ人が入ってしまうな。朝一番とかがいいんだろうけど。そこまで苦労してまで撮りたいわけでもなかった。

イチョウは季語ではないと。イチョウを入れて一句詠みたいのだ難しい。銀杏落葉か銀杏黄葉か、中七しか使えない。

孤独にはなれているのだが、やっぱ孤立するのは心が荒む。孤独は自らが出てゆく感じだが、孤立は中に入っても無視され続ける。そんなことを感じる今日このごろ。

明日はパフェを食べに行こう。これがどう関係あるのかわからないけど人生初のパフェだと思うと期待が高まるじゃないですか?ほんとは昨日食べるはずだったのだが、散歩している間に疲れてしまって家の近くのサイゼリヤにはないようだったので諦めた。ガストにはあるようだ。

普通の喫茶店でパフェ食べる勇気はないよな。女の子が一人でラーメン屋に入るぐらい難しいと思う。一つ経験してみればいいんだよな。孤立していることがわかるから。

日本の閉鎖性はこういうところにあると思うのだ。場違いのところで異端性が受け入れられない保守的な国なんだと思う。

午前中に図書館に行って図書館二冊返却で一冊借りた。

坪内稔典編『短歌の私、日本の私』。
『万葉集』は天皇の代わりに歌を詠む役割があって、天皇の歌とされるものでも、歌人が詠んだものがあるという。それは天皇の地位というものを歌で高め、飾る必要があったからだ。衣装的なものなんだと思う。威厳ある姿とか。それで歌人は天皇の姿ばかりではなく予言的な歌を詠むのはそう願いたい祈りのような気持ちだったのだ。

それが言葉にすることで実現可能になる言霊というもの。例えば私がパフェを食べるぞとここで決意するとそう仕向ける自分の中に言霊としてパフェが宿るというような。実際はここで宣言したからにはやってみようと思う気持ちなのだが、それを予言的と言っているわけだ。出来ないかもしれないし。

万葉の前期の歌人がそういう巫女的な役割を負っていたのは事実だと思う。例えば、額田王有名は歌。額田王は王となっているが女性で天皇の妻とされるが当時は一夫多妻だから歌人としての妻みたいな役割だったのだろう。

熟田津の船乗せむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎ出でな

『万葉集・巻一・八』

その最も偉大な歌人といわれるのが人麻呂で、かれはそういう天皇の歌も多く作ったのだが挽歌として私的な歌も詠んだ。その「われ」というのが、この時代多く歌われたのは、却って「われ」でいることがなかったので、われを出す歌が革新的に歌われたという。『万葉集』はそういう意味で「われ」という個人が確立していく時代でもあった。天皇も個人として語られてくる。それまでは神であったからおいそれと個人を出せない時代だったのだ。例えば今の天皇を名前じゃなく天皇と呼ぶように。天皇は役割でありそういう存在(象徴)なのだ。

『万葉集』から『古今集』になると次第に歌そのものが貴族の遊戯(芸技)的なものになっていく。宴会芸として、歌合のようなゲームとして。そこで歌われるのは架空のわれでいいわけで、情景を詠むのも襖絵であったり架空のわれを楽しむようになる。それが技巧としての評価であり、次第にわれも内輪世界だけになっていく。それに不満なものは出ていかなかればならない。その典型的なのが西行だったのだと思う。

それは武士社会であったからでもあり、貴族社会からの分離闘争でもあったのだ。その切り離された世界が徘徊となっていく。それはそれで内輪の世界というより文化だった。

それが変革されるのが西欧から入ってきた自我という観念であり、それが短歌にも正岡子規のような人が出てくる。だから子規が『古今集』より『万葉集』を褒めたのはその「われ」が表れてくる和歌の歴史性があったのだ。

ここまでは永田和宏「私」の変容というエッセイでした。それで、今はまた短歌がゲーム的に内輪になっていると話で終わるのだが実際的な解決方法は書かれていない。短歌世界の状況分析。この本はそういうエッセイを集めたものだが、編集を俳人の坪内稔典がやっているというのが面白い(テーマ性かな)。

短歌ばかりうつつを抜かしていたので俳句が下手になったと思って藤田湘子『新版20週俳句入門』を読んだのだが、この本を読むと確かに俳句は作れるのだが、最初に二物衝動を進めるのでいきなりわかりにくい俳句になって一般受けはしない。シュールレアリズムの世界だから、わかる人にはわかるだろうという感じなのだ。抽象画のように。
いきなり抽象画を見せられてもそこから作者の意図を感じるのは難しいだろう。なんとなくリズムとか色調とか言われると感じる人もいるが、アイロン台にこうもり傘を示されてもそれが素晴らしいと思う一般人はいない。

だから二物衝動ではなかなか一般受けする俳句は作れないのだ。それこそそういう苦心を重ねて誰でも納得する俳句が出来た時は素晴らしいのだが、それはどうなんだろう。もうプロの領域なんだ。

そういう俳句はNHK的ではないし、またみんなが同じスタイルでやってもありきたりな俳句になってしまう。季語+やの俳句ばかりだと目立つはずはないのである。その中で特に優れた俳句でなければ取りにくい。それは句会とかの経験上、まず求められのは共感させるかどうかなのだ。それをみんなで、例えば季節感を楽しむとか、題詠は特にそういう共感力と特殊性のバランスみたいなものだと思う。異質性ではないよな。それにそういう句会にしてもNHKにしてもポジティブな歌の方が好まれるのだ。あとファンタジーさとか若さとか。オジサン世代には難しい。オジサン世代は安定感とか歴史性とか。すくなくとも二物衝動は、今の日本では流行らない。同調するものが流行るのだ。そこに自己を見出す。保守的な世界だから仕方がない。

また愚痴ばかりになった。

『シャギー・ベイン』はアグネスが禁酒していたのに、彼氏に酒を進められて(彼は愛の力を試したかっただけ)、ふたたびアル中になってしまう悲劇。依存症という病なのを理解出来ないで、禁酒グループの仲間からアグネスを引き離そうとしたのだ。ここは上手いと思う。AA(禁酒グループ)の仲間たちが禁酒一年のパーティを開いてくれたのだ。そのことをしっている家族はいいのだけれど部外者の恋人はそこでは場違いなのだ。彼は一般人とおかしな奴らという区別をしてしまう。そしてアグネスは一般人でいるべきだと思い込む。一般人ならば一杯ぐらい酒を飲んでも大丈夫だと。俺の愛が勝つのだと思うのだが、彼は何もわかっていなかった。

こういうのに感動してしまうのはアル中の人と付き合いがあったからだろうな。異質性を理解しないと難しいよね。



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