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オニユリや獅子のタテガミ歌に詠む

オニユリが咲く。毎年のように観ているとそれが季節の巡り合わせで俳句的なんだろうと思うがマンネリ化という気がしないでもない。そのイメージをその時でどう変えていくのか。写真だと去年の写真も今年の写真も同じように思えるが、そこに人物などが映り込んでいるとセンチメンタルになるのだろうか?今日の一句。

オニユリや獅子のタテガミ歌に詠む  宿仮

イメージの二物衝動というと『アメリカの詩を読む』でモダニズムの開祖と言えるエズラ・パウンドのイマジズムはT.S.エリオットを経て美の観念が精神性へと至るのだが、日本の短詩系の詩人たちが国家主義的精神論に飲み込まれていくのと重なっていくような気がする。そのもっともたる者が小林秀雄の美の観念で、マラルメもそうなんだろうが美という完成された概念は、美=死にたどり着くしかなく、その生のざわめきを排除していくように思える。ある種のエリート主義なのか?新古典派と言われる者たちの古典の精神の偏重という「偏重」も「へんじゅう」と読んでしまう学のなさなのか?

あまり好きではない言葉なのかもしれない。T.S.エリオットのテキストとなるのはパリ時代の彷徨いの詩であり、それは辺境の詩人としてのエリオットだった。その辺境としての世界の荒廃が『荒地』となるのだろうが、その後イギリスに亡命して(もともとアメリカ人だとは知らなかった)、保守主義者となっていくのだが、その国家主義観というのは辺境を止めて一つの国家に従属していくからだと思う。アメリカの詩人が後にイギリス亡命詩人であったエリオットやパウンドを批判していくのもそういうことなのかもと思う・パウンドの美の観念は閉じられていく花のようで、後に漂白の詩人であるフロストやカミングスによって批評されて行ったように思う。カミングスなんて多行俳句のような高柳重信と通じるものがあって好きなのだが、それはエリオットやパウンドが音楽的なものに魅せられるのに対してカミングスは絵画的な、声の喪失という「失われた世代」を経てきているからなのかと思う。例えばピンク・フロイドのシド・バレットのような。

シド・バレットがピンク・フロイドのメンバーから外され亡き人のように歌われた「狂ったダイヤモンド」や「あなたがここにいてほしい」は確かにロジャー・ウォーターズの名曲ではあるのだが、その音楽の中心からシド・バレットを排除していくのは社会的統合性の中で病者たるシドを見るからだった。彼がその後も絵の創作をしていたのはあまり知られていない。すでに隠遁者となっていたのだが、それでもそうした自身の病を抱えて芸術活動をしていたのである。シドの死によって、誰もが「あなたがここにいてほしい」とシドの居ない音楽の中で願う時盛り上がってしまうのは音楽がビジネスとしてシドが思っていた方向へ進んでいかなかったからだろう。シドの死と引き換えにピンク・フロイドが成功を掴んでいくドキュメンタリーなのかと思う。

詩のレッスンにも飽きて「ウィークエンドサンシャイン」を聴いていたら、Anya Hinkleという女性ブルース・シンガーの曲が良かった。アメリカの中絶法に抗議する歌や移民の歌などのアメリカの今を歌うシンガーかと思う。この動画を観たときは、思わず泣きそうになった。

『窯変源氏物語11』は「雲隠」で凄いことをやっていた。通常はここは光源氏の死を暗示させるだけで題だけで中身がない帖なのだが、橋本治は聖典に対しての偽書という体裁で、たとえばグノーシスの書のようなことをやっていた。それは光源氏という一人称の男神が消滅すると、あらたにリリスという女神が登場してくるようなやり方で紫式部をリリスとして、書くことの欲望として登場させてくるのだ。考えようによってはここだけ『光る君へ』かもしれなかった。ただここでは光は闇の王としての光源氏で、それに仕えていた女房の一人であるリリス(エバ)が語り始めたということかもしれない。ポストモダンな『源氏物語』となっていた。

その後に映画を観に行ったのだが、とりとめもない順番になってしまった。

今日の一首。

孤独なライオン
見捨てられ
檻に咲く
オニユリとなり
タテガミ残す

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