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後輩書記とセンパイ会計、異界の旧家に挑む




もののけの国_表紙確定版


 ぴちょん。


 ぴちょん。


 ぴちょん。


 炊事場の蛇口から水滴が垂れている。みずみずしい夏野菜が桶の中で静かに艶めいている。なす、きゅうり、いんげん、立派なとうもろこし。
 誰もいない家。大きくて広い家。
 庭には赤白の花がきれいに咲き乱れ、どっしり構えた茅葺の母屋と、土間を挟んでつながった馬屋があり、馬や牛が柵から大きな頭を見せていた。鶏や鴨も庭を歩いている。

 ここに、いつまで、囲われるのか。
 大きくて、広く寂しい家。
 誰かがいるはずなのに、誰の姿も見えない家。
 迷い込んでからどれほど経っているだろうか。庭は美しい花々に溢れ、炊事場はいつも新鮮な野菜があり、ご飯を炊くいい香りが立ち込め、鍋には温かい味噌汁があり、七輪には焼き魚があり、鉄瓶にはたっぷり沸かしたお湯があり、奥の畳間にはよく磨かれた上等なお膳が置かれ、料理が盛り付けられ、まるで誰かの来訪を待っているようだ。

 誰か。誰か。
 次に来る、誰かさん。

 ころん。

 うっかり床に転がった、わたしのお椀。あっと思うと、拾いに来たのは赤い顔の大男だった。


     *   *


 開架中学一年、生徒会所属、有能なる書記のふみちゃんは、時代が違えば、日本民俗学の大家・とともに岩手県の伝説を編纂していただろう。ふみちゃんは小学生時代、柳田國男の「遠野物語」本編百十九話と、続編の「遠野物語拾遺」二百九十九話をひと夏で読破し、そこに込められた鎮魂や因果や共生のメッセージを壁新聞に記して学校に貼るほどの上級者だったらしい。
 そんなふみちゃんの話を、レトロな雰囲気満点の列車の席に並んで座り聞き入っている一年先輩の生徒会所属、平凡なる会計の僕は、およそ吊り合わないほどの民俗学知らずで、数学が得意な理屈屋で、遠野について事前に調べてきたのは、【SL銀河】という列車が岩手の釜石市と花巻市の間を毎週末運行しており、遠野市に途中停車するという鉄道情報と、花巻から出発して遠野に着くまでの間に、高さ二十メートル、全長百七メートルの立派な「めがね橋」を渡るという個人的に要チェックな観光情報くらいだった。
 今日は蒸し暑い夏の土曜日。土曜日はこのSLは花巻発の釜石行だけで、僕たちは保護者的なポジションの同行者二名とともに、合計四名で向かい合わせの座席を予約してもらい、いざ花巻を出て、快調に列車に揺られていた。
 列車の中でお手製の〝旅のしおり〟を広げ、ふみちゃんが得意気に語り出した。SL銀河は、岩手生まれの有名な詩人・童話作家のの小説「銀河鉄道の夜」の世界観や彼が生きた時代の空気を味わえる趣向がいっぱいなんです! と興奮していた。宮沢賢治と聞くと、僕は「注文の多い料理店」という話を小さい頃読んだことがあるが、どういう結末だったかうろ覚えだった。
「ふみちゃん、『注文の多い料理店』ってさ、最後は犬が飛び込んできて、客の男たちは無事に助かるんだったよね?」
「数井センパイ、半分違います」
「は、半分?」
 ふみちゃんは本が大好きで、学校の図書館では物足りず、公立図書館のたくさんの本を片っ端から読み尽くしていくほどの読書家だ。家は厄払いの神社で、行事がある忙しい日は巫女のお手伝いもしているそうだが、ともかくまあ、日本の古い伝統文化や、文豪と呼ばれる日本の作家とかについては相当な知識を持っている恐るべき後輩だ。
 そんなわけで、僕が中途半端な知識で何か違ったことを言うと即否定してくるが、小学校低学年くらい背が小さくて、前髪をきれいに切り揃えていて礼儀正しく、かわいい女の子なのだから、僕は文句の返しようがなかった。
 文句は言えないけれど、一応ちゃんと理由を聞こう。
「半分違うってのは何で?」
「紳士たちが助かったのはそうなんですけど、一ぺん紙くずのようになった顔は、元の通りには戻らなかったんです」
「紙くずのようになった顔……」
 頭に描いたものの、僕には想像力が足りず、これは恐い話だったと思うのだが、紙くずのようにくしゃっとなった顔が戻らない結末は恐いというより面白かった。
「へぇ、それって例えばこんな顔かい?」
 と、今日の僕たちの保護者であり案内人である岩手県民の男性、さんがふみちゃんに変顔を見せた。
「えへへ、ちょっと面白いですけど、逆神さんは眼鏡をしているので、くしゃ顔があまり似合わないですよ」
「そうかなぁ。まあ、ふみちゃんが言うなら仕方ないな」
 逆神さんは始発の花巻駅から一緒にSLに乗って、遠野を案内してくれるという地元の人で、銀河さんの友人だ。
 だってSL銀河の旅だし。銀河さんが来ないわけがない。銀河さんはすごくスケールの大きい名前だが、性別は女性だ。生徒会長・屋城世界さんのお姉さんで、気象学を学ぶ大学生で、交遊範囲が広く全国に友達がいるらしく、好奇心の赴くままに僕たちを車であちこち連れて行ってくれるのだ。
 ただ、銀河さんは旅をガイドしてくれるわけでなく、SLのチケット取りは全部逆神さんがしてくれたそうだ。僕たちは銀河さんの車で花巻に来て逆神さんに会ったという流れで、銀河さんはサカサンと変なあだ名で逆神さんを呼んだ。
 銀河さんは夏っぽいへそ出しタンクトップとショートパンツで、列車内の誰より肌の露出が多く、誰よりも胸が大きい。避暑地に来たモデルみたいに目立っている。そんな銀河さんは汽笛が鳴って発車するなり、テンション超MAXだ。
「うわーっ、走り出したよ! ねぇ、『銀河鉄道の夜』ってさ、機械の体を求めてアンドロメダへ行く話よね? SLのレールがカーブして列車が宇宙に飛び出したら面白いのにね!」
「え? ……その格好で宇宙にですか?」
「銀河さん、違います」ふみちゃんはくすっと笑った。
「それは松本さんのSF作品『銀河鉄道999』ですよ。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、ジョバンニという孤独を抱えた少年が主人公の不思議なお話です」
「あれ? そうだっけ。でも、列車で星に行くんだよね?」
「はい、星座から星座へ旅する銀河鉄道に乗りますよ」
 銀河さんは僕より予習不足だが、自由気ままが似合う。
 一方、逆神さんはかなり世話焼きな人だった。初めて旅行に来た三人を案内するのは大変だと思う。
 そんなに頑張るほど銀河さんに思いを寄せてるのかなーと僕は勝手に想像したが、逆神さんは銀河さんとは挨拶程度で、大きな胸に目をやることもなく、むしろ何かとふみちゃんを構うのだ。旅のしおりを早速読み、ふみちゃんに感想を丁寧に語り出した。
「いやーふみちゃんはよく調べてるねー。ほんとすごいなぁ。岩手のことが好きなの?」
「え? そうですね、遠野は面白いです。座敷童とか河童とか捨て山とか不思議な伝承がたくさんありますし。河童が赤いのも他の地域と違って独特ですよね」
「そうそう、遠野の河童は赤いんだよね。やっぱ岩手はいいところでしょ。いつかこっちに住んだらいいと思うよ」
 横で聞いていると、河童が赤いからいいところだとは思えないし、ちょっと行き過ぎた誘い方のような感じもするけど、逆神さんは目を細めてにこやかに微笑んだ。
 三つ目の駅、土沢を出ると、ここから三十分以上停まらないそうで、銀河さんが列車内を見たいと言い出した。
 一両目に行くと小部屋があり、なんと中はプラネタリウムになっていた。まさか列車内でプラネタリウムが見られるなんて。しかも用意がいいことに、逆神さんが発車してすぐに整理券をもらってくれていて、待ち時間も短く入れた。
 青く暗い部屋に入り、ソファに座ると、部屋の中心にあるボール状の小型プラネタリウムが天井に投射を始めた。これも宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をテーマにした話だが、それより僕はくすだま程度の小型機械が見事な美しい映像を描き出すことに感動しっ放しだった。作った人は天才だ!
「ふみちゃん、すごいね」
 と僕が言おうとしたことを、一瞬先に逆神さんに言われた。
「え? あ、はい、そうですね」
 ふみちゃんは愛想よく応えたが、僕は内心むっとしていた。感想は横の銀河さんとかに言えばいいじゃないか。
 そしてまた座席に戻った。銀河さんは特製星座盤を車内で買い、くるくると回している。ふみちゃんは車内に置かれた「SL銀河新聞」を精読している。実にのどかだ。逆神さんがプッシュする気持ちもわかるほど、本当に心安らぐ旅だ。そんなふうに時間がゆったり過ぎる中、SLは四つ目の駅のを出発し、いよいよ僕が個人的に一番楽しみにしている「めがね橋」が近づいていた。

②右_SL銀河



     *   *


 二匹の蟹の子供らが青白い水の底で話していました。
 その時です。にわかに天井に白い泡がたって、赤く大きなものが飛び込んで来ました。
 二匹はまるで声も出ず居すくまってしまいました。
 お父さんの蟹が出て来ました。
『どうしたい。ぶるぶるふるえているじゃないか』
『お父さん、いまおかしなものが来たよ』
『どんなもんだ』
『赤くてね、光るんだよ』
 お父さんが天井を見ると、つやつやした丸いものがちゃぷちゃぷと川下へ流れて行くのが見えました。
『こわいよ、お父さん』
『いいいい、大丈夫だ。心配するな。あれはもう誰かのところに行ったよ』
 泡と一緒に、花びらが天井をたくさん滑って来ました。
『こわいよ、お父さん』弟の蟹も言いました。
 光の網はゆらゆら、伸びたり縮んだり、花びらの影は静かに砂を滑りました。


     *   *


 遠野のめがね橋は、宮守川に架かる五連アーチが連なる橋だ。川面からの高さは二十メートルらしいので、そんなに高い橋ではない。今は昼前だけれど、夜になるとライトアップされ、橋の下にはクロスするように国道が通っているので、きっと夜に川辺から見上げる景色は幻想的だろうと思う。
 僕はSL銀河の窓から身を乗り出すようにして、めがね橋の雄姿を見つめた。ふみちゃんの旅のしおりには大正時代に作られたとあった。西暦に直すと一九〇五年なので、百年以上も前になる。その時に「岩手軽便鉄道」という路線が開通したらしいので、百年以上も列車を支えてきたのだ。
「数井センパイ、川の上はすっごく風が気持ちいいですね」
 僕の隣りにふみちゃんも来て、列車の窓から顔を出した。愛用の赤い水筒を手に持っている。冷たい麦茶だ。
「ふ、ふみちゃん、そんなにくっついたら橋が見えにくいよ。それに、手を出したら危ないって」
 僕は少し困った顔でたしなめた。川の上は風も吹くだろう。もし風にあおられ麦茶がはねて僕の眼鏡にかかったら、風格あるめがね橋を十分見れなくなってしまうのだ。
「えへへ、大丈夫ですよ。ちゃんと手で窓枠を持ってます」
 ふみちゃんが僕の胸のあたりでしゃべるのはくすぐったい。まあ、事前に調べてきためがね橋を間近でよく見たい気持ちがあるんだろう。僕にくっつくのはものの弾みに違いない。
「せめて両手で持ってないとさ」
 注意する間に川の真上に列車が差し掛かった。そのとき、びゅうっと一瞬だけ強く風にあおられた。
「あっ――?!」
 言ったそばから、ふみちゃんは赤い水筒のフタを手から滑らせ離してしまった。麦茶が飛び散り、幸いにも僕の眼鏡にはかからなかったが、水筒のフタはくるくる風に舞いながら川面へ滑り落ちていく。
「あっ! ほら、だから言ったのに……」
「ううっ……ごめんなさい。センパイ、眼鏡は大丈夫ですか?」
 眼鏡は顔の一部だから問題ない。というか慌てている間にめがね橋を渡り終えてしまったのが少し心残りだ。全長百七メートルだそうで、そんなに長い橋でもないのだ。
「僕は平気だけど、水筒のフタがなくなっちゃったね」
「はい……水筒のが部屋に出てきて、夜中うなされるかもしれません」
「な、何だよそれ。恐いこと言わないでくれよ」
 ふみちゃんは普段から突然妖怪とかそういう不思議なものを口にする。九十九神とは粗末に扱われた日用品や楽器などがお化けになって出るものだそうだが、水筒のフタを川に落としたくらいでは別に化けて出ることもない気がする。
「ふみちゃん、どうかしたの? 何かあった?」
 逆神さんが親切に声を掛けてくれた。ふみちゃんは水筒のフタを落としてしまったことを話した。すると、銀河さんは「何だ、それくらいなら後で何とかなるわよ」と軽く笑い、気持ち良さそうに目をつぶって窓から吹き込む夏山の風を感じていた。さすがにフタはもう戻って来ないだろうが、僕もぼんやりしてないでふみちゃんを励まさないと。
「さあさあ、ふみちゃん、元気出して。さあ、次の駅が待ちに待った遠野駅だよ!」
 また僕が言おうと思ったことを逆神さんに先取りされた。
「だそうですよ、楽しみですね、センパイ! ついに念願の赤い河童に会えますよ!」
 とふみちゃんが逆に僕を励ますような言葉を掛けてきた。正直河童との遭遇もそこまで楽しみではないけれど、どう返すか迷った後、「はしゃぎ過ぎて迷子にならないようにね」とお父さんみたいな言葉が出たが、遠野駅に到着する汽笛の音に空しく掻き消されてしまった。
 まあ、四人旅だし、超アウトドア派の銀河さんと案内人の逆神さんもいるし、迷子にはならないだろう。
 このとき――僕はそう思っていた。


     *   *


 昔、遠野のあるところに貧しい百姓がおったそうな。妻を亡くし美しい娘と暮らしており、一頭の頼もしい馬を飼っておった。そして、娘はこの馬をこよなく愛しておった。
 娘は夜になると父親の目を盗んで、馬小屋にそおっと忍び込むと、愛する馬とをともにし、ついには馬とになってしまった。
 ある晩、父親は娘の様子がおかしいので、何かあったのか問うて、なんと娘が馬と夫婦になったことを知ってしまった。
 怒り猛った父親は、自分が育てた娘の想いは十分わかれども、馬と夫婦になったというのは何とも信じがたく、無論のこと村の衆に知られるわけにはいかない。断腸の思いで太い縄を持ち、娘には知らせず馬を小屋から連れ出し、馬の首に縄をかけ、裏庭の桑の木に吊り下げ、殺してしまった。
 その晩、娘は外での野良仕事から帰り、馬が小屋にいないことを不思議に思い、慌てて父親に詰め寄った。「をどうしたのか。馬をどこへやったのか」と。父親は大量の脂汗をかいて黙っていたが、あまりにも娘が泣きじゃくって尋ねるので、父親の顔は紙くずのようにくしゃっとつぶれ、とうとう馬を殺したことを白状してしまった。
 娘は背筋が凍り、腰が抜けるほど驚いて庭へ飛び出すと、止めどなく涙を流しつつ、馬を吊ったという桑の木へ走った。月の朧な灯りに照らされて、桑の木の根元には馬の大きな体が倒れて横たわっていた。娘は冷たくなった馬にすがりつき、ただただ泣き続けるしかなかった。
 背後に重々しい足音がしたかと思うと、娘は真っ赤に濡れた目で振り返った。すると、そこには大きな斧を握り締めた父親が悲痛な顔で立っておった。
 これ以上我が娘の哀れな姿を見たくないという一念で斧を持ってきたのだ。娘は父親が何をしようとしているかわかり、冷たい馬の頭に身を寄せて、「おとんやめでけっちゃ、おとんやめでけっちゃ」と激しく泣き叫び、もう片時も離れたくないと訴え、その場を頑なに動かなかった。娘の大声に隣家もざわめき出してしまい、父親は覚悟を決め、娘を馬から引きはがすと、斧を振って馬の首を切り落としてしまった。
 力も抜けて立ち尽くす父親の足下で、庭に転がった娘はまた這い寄って、切られた馬の首にしがみつき、懐に忍ばせていた刃物で喉を掻き切り、父親の目の前で絶命してしまった。父親には止めるすべはなかった。娘と馬が夫婦になり、その縁を無理やり断ち切った時に、こうなることもわかっていた。それくらい、夫となる者を深く愛する娘に自分が育てたのだ。娘は、親の望んだ通り深く深く夫を愛していた。ただ不幸なのは、相手が馬であっただけのこと。それが人の世では受け入れがたいことであっただけのこと。
 娘の美しい魂は、先立った馬の魂を追うように、馬の首に乗って天へ昇っていった。父親は大層後悔したという。
 ご神体が桑の木で作られており、一対の夫婦として馬と娘の顔が彫られた「オシラサマ」というのは、この時から遠野の土地に語られるようになった神様だということだ。


     *   *


 僕たちが遠野駅に下りたのはお昼を少し回った頃だ。その前に列車内で、お昼に何を食べるかの議論があった。
 逆神さんから実はジンギスカンが遠野名物だと提案があったが、銀河さんは馬肉のカルビ丼や馬肉ラーメンってのが食べられるお店があるみたいよ、と鼻息荒く言った。馬肉ラーメンは僕も気になったが、ふみちゃんが遠野で馬を食べるのは少し抵抗があるとあまり理由も語らず言い出して、馬肉は却下になった。いつの間にかジンギスカンの線も消えた。
 結局普通に郷土料理を食べようということになり、レンタカーを借りて銀河さんの運転で、りのある遠野体験村へ行って昼食にした。うなぎの蒲焼、天ぷら、山菜などの素朴な料理とお椀に温かいすいとんがある。逆神さんの話では、このすいとんは【ひっつみ】と呼ぶそうだ。
「ねぇ、サカサン、曲り家って何だっけ?」
 逆神さんはむむっとうなった。
「銀河さん、予習不足ですねー。岩手好きなこのふみちゃんを少しは見習わないと」
 何気に上から目線な言い方だ。年齢は逆神さんのほうが上だから不自然ではないけれど。あと、すいとんを食べる逆神さんの眼鏡が曇ったが、つまり僕の眼鏡も同じだろう。
「あの、逆神さん、私も曲り家はあまり詳しくないんです。建物は理系の数井センパイのほうがたぶん」
 ふみちゃんからの無茶なパスだ。
「えっ、いや、曲り家とか初めて聞いたよ。うーん、曲がった家ってことかな? 東北だし、雪の重みで曲がったとか?」
「おっと! 面白い解釈だけど、数井くん、それは違うね」
 逆神さんがだんだん調子に乗ってきていた。
「曲り家ってのは簡単に言うと、母屋と馬屋が一体になったL字型の家のことなんだよ。間に土間があるんだ」
「……ウマヤって、馬小屋のことですか?」
 馬小屋はかなり馬の匂いがしそうだ。母屋とつながっていて嫌じゃないんだろうか、とか考えてしまう。
「そうそう。昔は馬をたくさん飼ってる大きな家もあってさ、曲り家は豊かな農家の家なんだ。かまどや炉で焚く煙を利用して、馬の体や干し草を乾かすことができる造りなんだよ」
 へぇ、と僕たち三人は頷いた。さすが現地ガイドを買って出るだけあって遠野文化にも詳しい人だ。何だか社会科見学か修学旅行にでも来たような気分になる。
「サカサン、ここは馬が多いから馬肉料理があるわけね?」
「遠野は日本有数の馬の産地らしいね。『』と言って、平安時代から軍馬や農耕馬を育てて各地へ送り出してたって話だ。だから馬はすごく大事にされてる。曲り家では人と馬がひとつ屋根の下に住んでるわけだしね」
「人と馬が――ここでは特別な結びつきなんですね」
 ふみちゃんは何となく思わしげな顔つきで深く頷いた。そう言えば、しおりに馬の神様がいるとか書いてあったかな。確かに馬が人とともに暮らすような生活だったら、馬を大事にする考え方になる気がする。銀河さんが口を開いた。
「ねえ、今日乗ってきた列車が、大正時代だっけ、に開通したじゃない。馬は使われなくなったんじゃないの?」
「明治時代は、馬は国策として増殖・改良が行われて、遠野でも九千頭も馬が飼育されてたらしいし、大正時代も需要があったと思うよ。でも結局その後、戦争に負けて軍馬が不要になって、交通手段や農業も機械化されて、馬の数は激減したらしいね。鉄道も近代化に一躍買っただろうし」
 逆神さんは眼鏡を曇らせ、すいとんを啜りながら語った。機械化――機械の体を求めて鉄道に乗るみたいな話を聞いたせいか、馬が重宝された昔の時代からどんどん機械になっていく時の流れを、僕は何となく銀河鉄道に思い重ねていた。
「遠野には日本の馬の歴史があるんですね」
 ふみちゃんが山菜をよく噛みながらつぶやいた。
「うん、ふみちゃんは理解が早いね。馬がたくさんいた時代の遠野と今の遠野は生活も風景もだいぶ違ったんじゃないかな、と思うよ。宮沢賢治が遠野に暮らしてた時代は戦前だし、野山のそこら中に馬がいたと思うね」
 逆神さんは遠い目をしながら言った。僕は聞き返した。
「宮沢賢治も遠野にいたんですか」
「うん、昭和の初めに遠野で学校の先生をしてたよ。農学校を卒業した後、師範学校で教員になって、遠野の小中学校の教員を勤めてたそうだ。『風の又三郎』って話は聞いたことあるかな。『どっどどどどうど』で始まるやつ。あの学校のモデルは遠野の小学校という学校らしいね」
 僕はこれ以上宮沢賢治の話題が続いても難しかったので、静かに頷くと、ふみちゃんの顔色を見た。ふみちゃんは興味深そうに目をキラキラさせ、山菜をよく噛んでいた。
「あの、逆神さん、話はちょっと変わるんですけど、河童って力持ちで、水の中に引きずり込むって言いますよね」
「うん、言うね。遠野の河童はよく悪さをするらしいよ」
「それは――馬と関係あるんでしょうか?」
 逆神さんも小首を傾げた。河童は非実在の妖怪じゃないだろうか。キュウリが好物とか、人と相撲を取るとか、尻子玉を抜くとか昔話で言うが、一方、馬は農業や移動に使う動物だ。河童と馬が僕の頭の中では結びつかない。
 でも、ああ、と思い出したように逆神さんは手を打った。
「そう言えば、遠野の昔話の中に『河童の駒引き』って話があるね。駒は馬のことだよ」
 それは逆神さんによると、河童が出る淵があり、若者が馬をそこへ連れて行った時、馬が何者かに引っ張られ、驚いた馬が馬屋に逃げ込んだ後、河童が馬屋で見つかり、「馬の力に引っ張られてここまで来てしまいました。もう二度としないので帰してください」と家の人に謝ったという昔話だ。
「うわぁ、すごい! 逆神さんは何でも知ってますね!」
「いや、まあ、遠野は語りの人からそういう話を聞ける機会があるからね。岩手は人がよくていいところだよ」
 ふみちゃんと逆神さんは息が合ったように河童が実在する前提で話しているが、僕はそんなの子供に川に近づかないよう言い聞かせる脅し文句かな、と思うし、銀河さんも少しは話に混ざってこの妙な空気を中和してほしかった。
 そして、河童を信じる二人でやたらと盛り上がり、この後【カッパ淵】という場所にも行ってみようと話がまとまった。その前に遠野体験村で曲り家をいくつか見てから車で行くと言う。まあ、僕は〝ウキウキワクワク河童ウォッチング〟をしたいふみちゃんに付き添うだけの役割だ。
 村内を歩いている時、銀河さんがふと話しかけてきた。
「数井くん……だっけ。ねぇ、河童ってさ、隙を見て子供とかを川に引きずり込むんだよね」
「はい、そう……みたいですけど」
 詳しくないので僕は曖昧に頷いた。専門家が他に二人もいるのに、なぜ僕に聞くのだろうか。
「ふみすけちゃんのこと、ちゃんと見ておいてね」
 銀河さんは、ふみちゃんを〝ふみすけ〟と呼ぶ癖がある。それはともかく僕は銀河さんよりふみちゃんをよく見ている自信があった。「はい」と素直に答えておく。
「オッケイ。じゃあ、最後までよろしくね」
 銀河さんはそう笑うと、僕にウィンクを送ってきた。


     *   *


 赤い顔の大柄の男が馬屋のそばを歩いていた。その手には拾った赤いお椀を一つ持っている。
 男は、人里離れた山中の忘れられた曲り家に時々ふらっと現れて、山で採ってきた野菜や穀類を食っており、ふもとの里の人たちとはまったく違う金色の瞳をしていた。
 男は、誰も知らぬ大きな家に一人で住んでおり、山に入って家を空けることも多いが、家の中をのそのそと見回っていたところ、馬屋のそばでお椀を見つけたのだ。
 家の周囲には獣道もなく旅人も通らず、この男以外にここを知っている者はいないだろう。なぜこんなものがあるのか。お椀は女が好みそうな美しい赤色だった。
 まさか。これは……ここに迷い込んだ女が持っていたものだろうか、と男は思った。そうかもしれない。女は馬屋の裏にある桑の木の根元で眠っている。男はお椀をどうしようか少し考えた後、庭の中を流れる小川に浮かべた。
 庭に咲く赤白の花びらとともに、お椀がせせらぎに乗ってゆっくり流れていく。
 この川はふもとの人里までつながっている。誰かが拾うかもしれないし、拾わないかもしれない。物好きがいれば、山奥に誰か住んでいると思って、また迷い込んでくるだろう。普通は山奥に誰かが住んでいようと興味を持たない。だが、中には一人くらい、いるものだ。
 男は金色の瞳でニタリと笑い、斧の手入れでもしておこうかと家の中に戻った。


     *   *

③左_オシラ堂


 遠野体験村を出発した後、【カッパ淵】という場所の手前に、四百話もの『遠野物語』を柳田國男に語ったことで知られる佐々木という伝承収集家の記念館などがある施設があるということで、寄ることになった。
 ちなみに、銀河さんが昼食前に空を見て「うーん、午後はちょっと天気が崩れるかも」と予告した通り、午後に霧のような小雨が降り始めた。逆神さんは車中で驚きを表す。
「銀河さん、本当に天気の変化を当てましたね!」
「あたしね、天気を見るんじゃなくて感じるのよ」
 いくら大学で気象学を専門に学んでいるからと言っても、さすがに天気を予告するのは相当特殊だと思うけれど、銀河さんは得意気に言うほどよく当たるのだった。
「いや、さすが銀河さん。でも、雨の岩手もまたいいでしょ」
「ふふ、そうね」
 銀河さんは同じフレーズの繰り返しに苦笑した。
 雨が降ると遠野の畑や民家は眠ったように静けさに沈み、遠くで牛の間延びした鳴き声が聞こえるかどうかの程度で、車の往来はあるが、傘を差して歩く人影も見えなかった。
 道なりに車が進む中、ふみちゃんは後部座席の僕の隣りで窓の外をぼんやり眺めていた。
「ふみちゃん、どうしたの? 車酔いとかしてない?」
「はい、センパイ、大丈夫ですよ。あの、次に行く施設なんですけど、遠野などで信仰される神様が祀られている小さなお堂があるんです。そこを見てみたくて」
「ふみちゃんが見たいなら見ればいいんじゃないかな」
「それが……ちょっと、わけありの神様で。もしセンパイが気分でも悪くなったら……と思うと心配で」
 気分が悪くなるって、どんな神様なんだろう、と僕は逆に興味を持ち、その神様について聞くことにした。ふみちゃんから先に聞いておけば心の備えもできるだろう。
 が、それは考えが甘かった。ふみちゃんが教えてくれたのはオシラサマという神様で、農家の娘が飼い馬と夫婦になり、驚いた父親が馬を桑の木に吊って殺し、娘がすがりついた馬の首を切り落とし、最後に娘も後追いで天に昇ったという、悲恋というより非常に無残な話だった。
「なるほど、壮絶なお話だね……。さっき〝人と馬の特殊な結びつき〟って言ってたのはこれ?」
「はい、でもその後、農業やなどの神様として祀られてますし、二人……と言わないかもしれませんが、この夫婦は天で幸せになったとは思うんです」
 そうは言うものの、女の子でこれを事前に知っていたら、馬肉の食事を控えたい気持ちはよくわかる。
 そして、施設に着いて入口をくぐり、佐々木喜善の記念館を見た後、奥にある【オシラ堂】と書かれたお堂に入った。
「ふみちゃん、この中でオシラサマが見られるの?」
「見るというか、見られている感じらしいですね」
 足を踏み入れると、それは――息を飲むような光景だった。
 赤い照明に照らされた、指ほどの小さな木の人形が、ハンカチくらいの様々な色の布に包まれ、四方の壁面にびっしり隙間なく飾られていた。密集感のあるすさまじい数だった。掲示の説明によると、なんと千体ものオシラサマの人形が奉納されているらしい。お堂の中心には古い木の幹があり、しめ縄が回してある。これは桑の木かどうか僕の目にはわからなかったが、植物に詳しい銀河さんが見て「たぶん桑の木ね」と言い、じっくりと壁面の人形を眺めていた。
 人形の顔を見ると、耳が上に立っているものが半数くらいある。顔が細長く鼻が突き出している。きっとこれが馬の夫の人形だ。人間の娘をめとったとされる馬の神様。
 胴に巻かれた布には絵馬のようにみな文字が書いてあった。豊作や恋愛成就や結婚などいろいろな幸せを願う言葉だが、豊作はともかく、人と馬の結婚を認められず父親に殺されたオシラサマに結婚を願う気持ちは、僕にはよくわからなかった。人と馬の……を想像すると胸が重くなってくる。
「数井センパイ……やっぱり顔色が優れないですね」
 ふみちゃんが心配そうに僕の顔を見上げていた。
「いや……大丈夫だよ。たださ、あんな悲劇があったのに、どうして遠野の人はここで良縁を願うのかな?」
「センパイ、気持ちはわかりますけど、違うんです。この夫婦の愛は報われませんでしたが、でも、悲しみを抱えたまま天に昇って神様になったので、自分たちが叶えられなかった幸せを私たちに分けてくれるんですよ」
 その言葉に揺さぶられた。ふみちゃんは本当に中学生なんだろうか。妙に説得力のある言い方で、僕は心が静まった。
「なるほど――幸せを分けてくれるのか」
「はい、私たちにも」
 えっ、とドキリとした。今のはどういう意味なんだろうか。文脈的に僕とふみちゃんのことだろうか。心優しいふみちゃんが僕のそばに寄り添って、にっこりと上目遣いに僕の顔を見つめている。照れ臭いから頭とか撫でておこうかな。
「はーなるほど、オシラサマが蚕の神様なのは、蚕が桑の葉を食べるからかー。馬を吊った桑の木と関係してるわけだ」
 背後で逆神さんが大きな声で感心していて、うるさかった。馬を吊ったとかの言い方がおごそかに幸せを祈るお堂の空気を壊し、中心の木がまるでその吊った木のように思えた。
 結局ここで僕はふみちゃんの頭を撫でることはなく、まあ、銀河さんの目もあるし、静かにお堂を出た。それから施設の人からについての話を聞き、蚕というのが【カイコガ】という蛾の一種だと知った。幼虫は白い芋虫でさなぎになるとき、を作り、その繭から糸を作ると絹糸と呼ばれて上質で高級な糸になるそうだ。
 今の夏の時期は蚕の幼虫に桑の葉を食べさせて成長させ、秋になると繭を収穫するらしい。養蚕の写真が展示してあり、成虫の蛾は真っ白でふさふさだった。
「カイコの成虫は、全身白い服を着てて羽がドレスみたいで、何かお嫁さんみたいでしょ」
 施設の人はまるで娘を愛でるようにそう言った。僕は蛾を花嫁衣裳のように見ることはできなかったが、ふみちゃんは「そう見るとカイコガも可愛いですね、センパイ」と微笑み話に乗っていた。足が六本あるけれど、まあ、ふみちゃんがそう言うなら頷いておこう。
「さなぎから大人へ。真っ白い花嫁姿はほんといいね」
 逆神さんがまた変なことを言うと、銀河さんが反応した。
「そう? あたしはセスナで天に昇って、スカイダイビングのウェディングとかが面白そうかな。で、そのまま青い海にザッパーンみたいな!」
 空から海って。そんな銀河さんの結婚相手はハリウッドのアクション俳優とかでもないと務まらない気がする。人目を忍ぶ悲恋の末に天へ昇ったオシラサマとは大違いだ。
「ふみすけちゃんは、どんな結婚がしたいの?」
 銀河さんが思いがけず直球で聞いた。僕も耳が大きくなる。ふみちゃんは少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。
「え、えっと……私は白無垢が絶対似合う、と家族や親戚の人たちから言われますね。ほんと全員から言われます」
「あー、それすっごいわかる!」
 そうかな、それはふみちゃんの家が神社だからということもあって、ウェディングドレスもいいと思うけどな、と僕は思うが、逆神さんが調子良くまた口を挟んだ。
「うん、それだね! ふみちゃんは白無垢がいいね。岩手にも盛岡八幡とか神前式で有名ないい神社があるからね!」
 そんなこんなで、僕は不機嫌さをこらえつつ、銀河さんの車にまた乗ってカッパ淵に向かったが、着いてみると思ったよりも暗くて小さい普通の川だった。
 河童の看板が歓迎してくれたけど、もちろん生きた河童に遭遇するはずもない。受付に行くと赤い河童が釣竿を持った人形があり、『カッパ捕獲許可証』なる案内があった。
「えっ?! サカサン、ここって河童の釣り堀なの?!」
「いやいや、釣り堀ってわけじゃ……」
 銀河さんは大学生だが大丈夫か。まわりにいた地元の子供からも笑われている。そして、非常に用意がいい逆神さんはさっきの施設で売っていた『カッパ捕獲許可証』を買ってくれていた。銀河さんは意気揚々とふみちゃんに渡す。
「ふみすけちゃんは、不思議なものが見えるのよね?」
「え? あ、はい、見えます」
「オッケイ、じゃあ、河童釣りは任せるね!」
 すごい会話だが、実はふみちゃんは不思議なものが見える特殊な感受性があるらしいのだ。それで危険だから神主のお父さんが作った護符を肌身離さず持っていて、不吉なものに近づくと護符が警告を知らせるように宙を舞うのを僕も見たことがあった。だからと言って不思議な存在を信じるのは難しいが。ともかく、ふみちゃんは許可証を受け取った。
「ご期待に添えるかわかりませんが、じゃあ、頑張ります!」
 ふみちゃんはここで借りられる簡易な釣竿を持つと、糸にキュウリを取り付け、気合十分で川に向かった。
 カッパ淵は気軽に楽しめる遊び場で、家族連れのお客さんも多い。銀河さんと逆神さんが飲み物を買いに売店に入ったので、僕だけがふみちゃんのそばにいた。
 何だか川べりで足下が滑りそうだなと思った瞬間、
「あっ! センパイ! 河童に足を引っ張られっ!」
 と騒ぎ、僕が慌ててふみちゃんの腕を掴んで引き寄せると、ふみちゃんは「えへへ、冗談です」と舌を出して笑った。
 不機嫌だった僕は、そういう真似は止めてくれと腹を立てトイレに行った。ふみちゃんは申し訳なさそうに謝り、きちんと河童が釣れるまで頑張ります、と僕の背に言った。
 それからまた川に戻ると、カッパ釣りをしているはずのふみちゃんの姿はなく、おかしいと思って銀河さんや逆神さんに言った後、懸命に探し回ったが見つからなかった。連絡しようにもふみちゃんは携帯を家に置いてきていたのだ。
 川辺にいる人にも聞いたが、子供が川に落ちた話はない。あれば騒ぎになるはずだ。けれども霧雨煙る中、まるで神隠しに遭ったかのように消えてしまったのだ。僕は愕然とした。見つかるまで探そうとしたが、銀河さんは気が動転している僕を車に戻した。失意とともに銀河さんの忠告を思い返す。ふみちゃんをどうしてちゃんと見てなかったのか――と。

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