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愛知妖怪奇譚 やろか水、襲来

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 畦道を歩いていると、田んぼのほうから誰ともなく「やろか、やろか」と聞いてくる声がする。うっかり「はい」と答えてしまうと、その村に大水が来る。
 そんなのを「やろか水」と言う。
 そして、そんなのが、一人暮らしをする妹のアパートの蛇口に現れた。夜中に妹が一人でいると「やろか、やろか」と聞いてくるそうだ。誰かと一緒にいるときは出ないらしいが、そうそう毎晩友達を呼ぶこともできないし、残念ながら彼氏もいない。本気で鬱病になりかけていたので、僕は慌てて駆けつけた。やろか水が何を血迷ってこんな場所に居座ったのかわからないが、大水を出さない限り消えないのかもしれないし、かと言ってこの一帯を水浸しにするわけにもいかない。
 その日、ひとまず妹を友達の家へ逃がした後、僕は念のため妹の服を着て妹になりすました。それからテレビを見ながら、そいつが現れる瞬間をじっと待ち続けた。真っ暗な窓の向こうで網戸がくすくす笑ったかと思うと、台所から「やろか、やろか」と聞こえてきたので、僕は口を固くつぐみ、テレビの音量を落とした。窮屈な服とカップラーメンのせいで体中にじっとりと嫌な汗が滲んでいる。
 やることはすでに決まっていた。僕はすかさずロスアンゼルスに住む友人に国際電話をかけた。まだ通じるだろうか。頼む、つながってくれ――と必死に祈る。後ろから「やろか、やろか」としつこく蛇口がまくし立てる。
「Hi,」と受話器が言った。良かった、間に合った――。
 その晩、それきり声は止んだ。

 明くる朝に、テレビのニュースで、長引くかと思われたロスアンゼルスの大規模な山火事が突如起こった大水によって一気に鎮火したという奇跡を知った。海を越えたやろか水は疲れ果てたのか、あるいは新天地を求めて旅立ったのかわからないが、とにかく妹のアパートの蛇口から消え去ったようだ。
 それを嬉しげに話す妹の笑顔を確かめた後、僕は妹が煎れてくれたお茶を飲み、テーブルに服のクリーニング代を置いて帰った。

(了)

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