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名誉駅長バイアス

乗り物が苦手な私が、かつて列車の旅で素晴らしい体験をしたことがある。旅に出る事もままならない今、その時の事を思い出しその旅の価値を再認識している。

思い出す時私は1人笑っている。人生における思い出し笑いNo.1と言っても過言ではない。だから上手く語れないかもしれない、現実が面白すぎるからだ。

「現実は小説より奇なり」ゆえ、現実を超えられないかもしれない。


「伊豆に乗ってみたいリゾート列車があるんやけど一緒にどう?」

数年来の友人からの誘いがキッカケで、リゾート列車に乗って伊豆半島の旅が決まった。目の前に広がる青い海を眺めながら、おいしい料理や酒を楽しみ、会話の花を咲かせるリゾート列車。移動手段が旅のメインディッシュなのだと熱烈なプレゼンテーションを受けた。

小田原から伊豆急下田まで約2時間半の旅だ。

私たちは小田原駅まで新幹線と特急で移動し、小田原駅でリゾート列車専用のホームへと向かった。そこには既にリゾート列車が止まっていた。

ピンクゴールドを基調とした車輌に、繊細なラインで描かれた桜の模様が美しさを放ち、これから始まる旅の楽しさを予感させてくれる。それを背景に記念撮影ができるようパネルが置かれおり、もちろん私たちも写真を撮ってもらった。

車内に足を踏み入れると、そこはまた心地の良い和モダンな空間が広がっていた。通路には絨毯が敷かれていて、思わず土足で足を踏み入れる事に躊躇してしまう。上を見上げると、自然光のような間接照明の光が、優しく車内を照らしていた。

広く極限まで開口された窓に向かって、カウンター形式で設置されたソファーが今回の指定席だ。海側を向いた席を予約したため、思う存分広く青い空と海を堪能できる。幸いにもその日は曇ひとつない晴天だ。

「こんな向きに座って電車に乗った事ないよなぁ」と言いながらやわらかく肌触りの良いソファー席に腰掛けた。

周りを見渡すと、夫婦と思われる方、若いカップル、家族など乗り合わせた全員が幸せそうな顔をしている。

いよいよ出発である。窓の外ではスタッフの方々が「いってらっしゃいませ」と書かれた横幕を持ち、おもてなしの笑顔で我々を見送ってくれた。

ゆっくりと列車は走り出した。

席に置かれたパンフレットの路線マップを見ながら、やわらかい声の車内アナウンスに耳を傾けた。これから提供されるドリンクや料理、景色の見所や車内で行われるイベントなど、期待で胸がいっぱいになる。

友人はシャンパン、私は地元のフルーツで作られたドリンクで乾杯した。

「っあーおいしっ」「ほんまにおいしいなぁ、最高やなぁ」ゆっくりと通り過ぎる美しい景色を堪能しながら、各々がそのおいしさに酔いしれた。

友人の飲むシャンパンの泡がシュワシュワとグラスの中で弾け、太陽の光を浴びて輝いている。私にはそれがまるで幸福で出来た小宇宙に見えた。

少し走ると、早々にランチタイムだ。箱根の寄木細工と思われる蓋のついたお弁当箱が、目の前に置かれる。そしてその蓋が開けられると、中からフレンチ料理が現れた。添えられたお品書きを読むと、叶姉妹級のゴージャスなメニューばかりだ。地元の食材が使われていて、全てがこだわりの品だった。彩豊かなそれらを、いつものように飲み込むような食べ方で、一瞬で食べ終えないよう、ゆっくりと味わった。ここでは品よく、余裕のある振る舞いが求められる気がする。

別の車輌にはバーカウンターも備えられており、そこではボサノヴァの生演奏も開催された。みなが車窓に流れる風景と、優しく囁くような女性アーティストの声に身を委ねていた。

誘ってくれてありがとう、乗り物が苦手な私が、まさかこんな素晴らしい体験ができるなんて思ってもみなかった。そんな感謝の気持ちが溢れてくる。

しばらくすると、またやわらかい声で車内アナウンスが流れた。次は何が用意されているのかと期待に胸が躍る。

どうやら次の駅で名誉駅長が我々を迎えてくれるらしい。

「名誉駅長!?」「へぇ、予想外」

期待を凌駕するアナウンスに、乗り合わせた人々もざわつき、笑顔が広がった。名誉駅長のお出迎えなんて思ってもみなかったからだ。

真っ先に脳裏に浮かんだのは和歌山県の「たま駅長」だ。平成の日本の猫ブームを招来したとされ、亡くなった今でも名誉永久駅長となっている。白と黒と茶色の三毛猫だったタマ駅長は帽子を被ったとっても可愛い猫だった。

周りからも「どんな猫かな」「三毛猫かな」という会話が聞こえてくる。みんなの期待感が高まって、車内の空気が淡いピンク色に変わっていく。2匹の猫と暮らす私にとっても、とんだサプライズだ。

「aotenちゃん良かったやん、名誉駅長やって!」「うん、めっちゃ嬉しい!」そんな会話をしながら、旅行中我が家の猫の世話をお願いしているシッターさんにも写真を撮ってLINEしようと考えていた。

列車が駅に近づいてくる。反対側の窓に向かって体を反らし、いつでも写真が撮れるようにスマホをスタンバイした。

列車がゆっくりとスピードを落とす。

「皆さま進行方向向かって右手のホームをご覧ください。名誉駅長がお迎えしております。」そんなようなアナウンスが流れた。

そこには制服を着用し、満面の笑顔でこちらに手を振るご老人が立っていた。


あ、え…  うそ…

誰。


名誉駅長は猫じゃない、ホモサピエンスだ。

車内の空気が一瞬にして変わった。淡いピンク色の空気から、限りなく透明に近いグレーへと。

ホーム側の席に座っている子どもが、窓の向こうをじっと見ている。

「ねえ、お母さん、猫じゃないね、人だね」なんて言おうものならもう笑いを堪える自信がないのでどうか黙っていてくれ。

猫ちゃうんかーいという落胆の感情、駅のOBとして名誉ある方が、ボランティアで我々観光客を出迎えてくださっているのに、そんな事を思った罪悪感、残念さを表情に出してはいけないという名誉駅長への気遣い、そして何よりも絶対に笑ってはいけない空気。

いや、観光地で迎えてくれる駅長といえば猫に違いないというバイアス思考で勘違いしたこちらが悪いのだ。

友人も猫ちゃうんかーいという行き場を失った感情を抱え、笑う事もできずに、とにかく微妙な表情で名誉駅長に手を振っていた。

駅をすぎてから、友人と見つめあった。


「…猫ちゃうかったな」「普通、猫って思うやんな」「うん、普通猫やで」「絶対みんな猫やと思ってたし…」

笑いを必死に噛み殺しながら、2人でボソボソと言い合った。中年女子が企み顔でヒソヒソ話をしているそれは、洗練された列車に似つかわしくないありさまだった。

そこから恐らく1時間以上列車に揺られ続けたと思う。しかし、次々と現れる美しい景色への感動も、美味しい飲み物への驚きも、可愛いお土産品への嬉しさも、名誉駅長が猫じゃなかったインパクトには敵わなかった。もはやそこは非日常のリゾート列車ではなく、ただの日常と化していた。

そして私は今、これを書きながらやはり笑っている。

  #エッセイ , #ねこ , #名誉駅長 , #リゾート列車 #旅 , #バイアス , #思い出し笑い






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