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「この父ありて 娘たちの歳月」に母を想う

「この父ありて 娘たちの歳月」梯久美子(文芸春秋刊2022年10月)の読後感想文である。

朝日新聞の書評に取り上げられ、翌日の読売の書評にも出ていて気になった。娘の目でみた父の像には興味がある。父あるが故の娘の言葉が、梯を通して紡がれている。日経新聞で1年間の連載をまとめたものということもあり極めて読みやすい。「サガレン」の著者の聞き語りである。また、娘と言っても、みな戦前の人間で、自分にしてみれば母の世代の9人であり、母の時代感覚を想像する。
まず冒頭の二人、修道女渡辺和子(1927-2016)と歌人齋藤史(1909-2002)に、衝撃を受けた。2.26事件で青年将校に銃殺された渡辺錠太郎の娘と青年将校を幇助した罪に問われた齋藤瀏。二人は、事件のわずか8年前に層雲峡の陸軍療養所建設で協力し、名前を刻んだ石碑も残っているのだという。9歳の少女が目の前で父親が殺されるたことに立ち会う状況に置かれた自分を、後に「父の最期を見守るために生まれて来た」と言わせる親への想いは、想像を絶する。齋藤史にしても、父親は部下思いの陸軍士官で、反乱に命を賭す青年将校の心が分かるとはいえ、世間からは現人神に弓引く人間とされたことを、どのように納得すればよいと感じたろう。父は軍人であり歌人、史も歌人となった。1997年宮中歌会始めの召人に選ばれ役を果たした。お題は「姿」。88歳になった史は「野の中にすがたゆたけき一樹あり風も月日も枝に抱きて」と歌った。天皇との会話が和解の風景とも書かれている。軍主導で、既成事実の積み重ねと、現実を見ない上層部の進めた戦争、それを止められなかった天皇。父を見て、生きる苦しさを強く感じた二人である。2月26日は、わが息子の命日でもあり、重い日である。
作家島尾ミホ(1919-2007)は、鹿児島に生まれるが、2歳で奄美の大平文一郎の養女となり、琉球士族の子として愛されて育った。女学校は目黒で、東京で料理店を経営する実父が、兄と一緒に面倒も見た。自ら病を得て沖縄に戻り、養母が没して養父の面倒をみようと思ったが、特攻隊の島村と婚約。生還してしまった島村と戦後、神戸で生活を始める。その島村が不倫事件を起こし精神を病む。父(養父)を捨てて、自分勝手な幸福を夢見たことの後悔が、54歳で作家として生きることになった。ここにも、戦前、戦後の激動が生んだ人生が記されている。
詩人石垣りん(1920-2004)は、日本興業銀行のOLとして、父、義母、二人の弟の生活を支えた女性。戦後の労働組合では「男たちの既に得たものは、ほんとうにうらやむに足るものなのか。女のしてきたことは、そんなにつまらないものだったのか。」(p.85)と書く。いわゆる男女平等とか男女共同参画とかいうのと、少し違う視点で、より本質的な人間の生き方への問いがある。事務職の身分を少しずつ上っていくものの「私はこのお金で自由が得られると考えたのですが、お金を得るために渡す自分の分量を知らずにいたのです」(p.91)男だから女だからというのではないが、それでも女であることでより見えてくるものがある。生活力のない父と、子どもの前でもでれでれする離婚歴のある義母の夫婦を見るのは面白くない。それでも父と、その死後13年義母を見ている。50歳になって、ようやく1DKのマンションを買って亡くなるまでの34年間、詩人として暮らした。
詩人茨木のり子(1926-2006)は大阪生まれ、医師宮崎洪の娘。父は1942年から愛知県吉良町で地域医療に従事した。実母は小5のとき亡くなって二人目の母を迎えている。戦時中に薬学専門学校に進学するが蒲田の東邦大学の前身である。1975年の昭和天皇の記者会見で戦争責任について語ったことばに、痛烈な怒りの詩を書いている。戦争で死んだ日本兵、戦争未亡人の心が現れたのだという。26年ともに暮らした夫を亡くした直後ということもあったのかもしれない。その後、50歳になって父の13回忌の命日の日から、朝日カルチャーセンターで韓国語を学び始めたという。
小説家田辺聖子(1928-2019)の父は写真屋さん。17歳のときに終戦。楽観的な父が、空襲にあって仕事が再開できずにいた。娘の目からは、口だけで実行力のない情けない父と映っていた。70代になって「優しい言葉のひとつもかけてやらなかった」ことを後悔していると書いていある。とても優しい父の記憶が多く残されてもいる。
辺見じゅん(1939-2011)は、角川書店創業者で俳人でもある角川源義の長女。弟が角川春樹。父親の葬儀の日、幼い娘二人を連れて夫の家を出て、葬儀にも出ていない。自ら「父が死に自分も死んだ」と言い、春樹は「父の望む人生を捨て、別の形で父に近づいた」という。源義は折口信夫に影響を受けたが、学生の身で結婚し辺見じゅんが生まれたことから破門になったという。25歳のデビュー作が「花冷え」。父からは一喝されたというが、父の句「われ四十吾子大学に行く花冷え」に、父の哀愁や孤独を感じてタイトルにしたという。小学校4年のときに、母は家を出て、新しい母照子と暮らすこととなった。その義母を辺見は慕い大切にしたという。戦艦大和の生存者の話「男たちの大和」や、シベリア抑留者の話「収容所から来た遺書」を書いているのも、父が民俗学で人の話を聞くという心に通じるものがあるという。
萩原朔太郎の娘の葉子(1920-2005)は、家庭人としてはだめな親父によって生まれた作家である。宇野千代と尾崎士郎が馬込に移り住んだことを機に、多くの文人がやってきて、文士村ができた。朔太郎は、妻を美人と思わず倦怠期を意識して宇野千代に相談したのが、ことの始まり。妻は、ダンスや断髪、モダンガールを振舞い、若い男と家をでることに。家庭を顧みない父で、冷酷な祖母ケイに面倒を見てもらうことになる。17歳の葉子に25歳の継母美津子がやってきた。ただ、小学校のときに書いた文章が家の恥をさらすと祖母に言われたものの、父はありのまま書くことは良いことと言ってくれたという。母との再会や、萩原家のできごとが、「書くことで蝶になる」(室生犀星)の言葉により、多くの作品になった。
最後は石工白石亀太郎の長女石牟礼道子(1927-2018)である。祖父も石工であったが小学校2年のときから放漫経営で事業が破綻し生活が厳しくなっていた。婿の亀太郎の倫理的な生き方が道子に大きく影響している。物不足、貧しい中でも、結婚した娘に手造りで家を建ててやっている。学歴は無くとも頭脳明晰で喧嘩早い男だったという。母方の祖母の吉田モカは、祖父が隠し妻を持ったことで狂い、盲目となったが、道子とは心を通わせていた。父の亀太郎も酒癖は悪かったが道子は逃げ出した母にかわり父につきあったという。「自分たちはどこからやって来たのか。何によっていのちをつないでいるのか。それを忘れ、あるいは見ないふりをした日本の近代を相対化したのが、水俣病闘争だった。」(p.268)と、梯は最後に記している。
自分の場合も、自分が生まれる前の母や父のことは、ほとんど知らない。父はゆっくり語りあうときが来る前に、自分が35歳の時に逝った。母は、従妹や知人が来たときに、興に乗ると若い時の話をしてくれたことがあるが、90歳を過ぎてからは、いろいろ尋ねると面倒くさいという風であった。父も母も、生母を早くに亡くしているが、この本に登場するような劇的な場面もなく平穏な家庭に育ったように思える。そして学ぶことについては、それぞれの祖父の理解があったことを感じる。9人の女性も、その点は、かなり共通しているようでもある。ただ戦争の時代に子どもから大人になった親の世代のドラマは、どこにも戦争が大きくかかわっていたということは強く現れている。書くことで、それが次の世代に繋がる。


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