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尾崎豊とクリスマス(太陽の瞳について)

①思想・哲学・文学・芸術の会(アープラ)について

今回は、私が普段からお世話になっているディスコードサーバである《思想・哲学・文学・芸術の会》。
そちらでクリスマスに向けた「Advent Calendar」の企画がある。(以下のリンクを参照ください)
そのため、せっかくならばクリスマスと何か関係があるものが書ければと思い、執筆する。

余談だが、私が他のNOTE記事にて「コラム」と冠しているものは、文章構成や内容をかなり精査して書いている。
今回の記事は、瞬発力的な文章で書きあげられればよいと思う。
つまりは、アドリブ的であって、ツイッターの絵描き界隈でいう「ワンドロ」みたいなものだ。

②尾崎豊について

では、今回の記事では「尾崎豊とクリスマス」というタイトルで執筆する。
まずは「私が尾崎豊について、どのように考えているのか」を前置きとしてご紹介しようかと思う。
そう思い、執筆をしたら4000文字近くなってしまったので、独立の記事とした。
もし、差し支えなければ、長すぎる前置きとしてご一読いただけると嬉しい。


今回、尾崎について執筆するにあたって、あえて他の方の評論や尾崎自身について調べ直さないこととした。
つまり、私が書きたいのは、「尾崎豊について正しい言説」をすることではなくて、「私が尾崎にどう向き合って、捉えているのか」ということだ。
そのため、もちろん事実と反することは断言しないように留意するが、私が文章を書く、その書くという、思考の流れ、まとまりのようなものを感じていきたい。

③尾崎豊の季節性について

まずは、「尾崎豊と季節性」について書いてみる。
彼の楽曲は、「十七歳の地図」「回帰線」「壊れた扉から」「街路樹」「誕生」「放熱への証」という6つのアルバムから成っている。
もちろん、上記アルバム以外に世間に公開されている曲はあるが、今回はその範囲には深く言及しないこととする。

彼の楽曲には、まさにこの季節という、分かりやすい楽曲は少ない。
はっきりと伝わるのは、上記アルバム外だが《秋風》という曲がある。

明言はされないが、《街路樹》からは秋の淋しさを、《米軍キャンプ》からは夏の気だるい潮風を感じ取れる。
僕は尾崎に感じる季節性は、夏の夜か秋の夕暮れである。
尾崎が常に問いかけるのは、夏の沈みゆく太陽で、夏に激しく吹く風だ。また、秋の冬に向かいつつある秋風と、冬に差しかかかった無風の太陽下だ。

具体的には、《路上のルール》や《15の夜》なんていうのは夏の暑さがどもる夜のイメージがあるし、《COLD WIND》や《Freeze Moon》は夏の夜に突き抜ける突風だ。
《十七歳の地図》は歌詞にもあるように、太陽が燃え盛りながら沈んでいく夏の夕暮れだ。
《黄昏ゆく街で》は身を凍らせる秋の風とイメージさせるし、《遠い空》は秋の日が沈みゆくさまを思い出させるし、《街角の風の中》は初秋のさわやかな清涼感だ。

つまり、夏というのは「青春」や「輝き」というものの比喩で、秋というのは「夏を後にするもの」で「失った何か」だ。
そして、「冬へと向かいつつあるものだ」。

秋と似ている季節感は春だが、春はこれから夏へ向かいにつつあるという期待を秘めている。そこには、希望や決意が感じられる。
しかし、個人的には尾崎ほど春が似合わない男もいないんじゃないかと、勝手に思ってしまう。
尾崎に吹く「風」は、春風でなく、秋風であって欲しい。

つまり、尾崎の《僕が僕であるために》で歌われる情景が、『冷たい街の風』だが、これが冬から春にかけるものであるとは思えない。
過ぎ去ったものを感じつつ、決意を示せるのが秋の風だ。

また、季節感を表す単語である《卒業》においても、では、これが3月の曲かと言われると疑問がある。
彼は高校を中退しており、実際は卒業式には参加していなかったはずだ。
この「卒業」は、何かの節目である「学校を卒業した」というメッセージよりも、自己の過去を振り返る内省のメッセージの方がより強い。
彼の卒業は振り返るものだ。
彼は卒業において、イベントとして、自身の節目としての卒業を祝福しているわけではない。
つまり、これから「来る」節目の卒業を祝うのではなく、振り返ることで創られる節目を、現在のものとして、肯定して祝福しているのだ。

④尾崎豊の英語タイトルについて

そんな彼の楽曲には、日本語のタイトルのほかに、英語でのタイトルがある。
有名どころから紹介すると、《15の夜》は「THE NIGHT」、《僕が僕であるために》は「MY SONG」、《卒業》はそのまんま「Graduation」だ。
これは尾崎のアルバムの背面に普通に書かれている。

そんな彼の楽曲の中に《太陽の瞳》という曲がある。
これは彼の最後のアルバムである「放熱への証」に収録されている一曲だ。
ちなみにこの曲の英語タイトルは「Last Chiristmas」だ。

それでは、この《太陽の瞳》について執筆する。

⑤尾崎豊の太陽の瞳について

まずは歌詞を引用する。

太陽が沈もうとしている夜が 唸りをあげて暴れている
心が釘打たれるような 痛みを感じている
何も失わぬようにと だからこんなにも疲れている
僕はたった一人だ 僕は誰も知らない
誰も知らない僕がいる

こんな仕事は 早く終わらせてしまいたい
まるでぼくを殺すために働くようだ
それでなければ自由を求める 籠の中に閉じ込められている
夢も現実も消えてしまえばいい
僕はたった一人だ 見知らぬ人々が
僕の知らない僕を見てる

一人になって罪を消そうとしても 自分の戒律の罪は消せない
人は誰も罪人だから 覚えてきたものに捕まえられている
一人になりたくない 争い合いたくない
僕はたった一人だ 僕は僕と戦うんだ
誰も知らない僕がいる

尾崎豊『太陽の瞳』

この歌詞から連想されるのは、「ジョハリの窓」だ。
ジョハリの窓というのは、自分の捉えた方についての手法の一つである。
みなさんもキャリア形成の勉強において、大学の講義において、どこかしらで目にしたことはあるのではないだろうか。

以下に参考のリンクを載せる。

さて、このジョハリの窓は以下の4つによって自己を捉えようとする。

「ジョハリの窓」Wikipediaより画像を引用https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8F%E3%83%AA%E3%81%AE%E7%AA%93

ジョハリの窓では「開放の窓」「盲点の窓」「秘密の窓」「未知の窓」の4つで分類されている。
つまり、「自己が知っている/知っていない」「他者が知っている/知っていない」という2軸のマトリックスで構成されている。

それでは、尾崎の《太陽の瞳》に話を戻してみよう。
一番の歌詞における『僕はたった一人だ 僕は誰も知らない 誰も知らない僕がいる』という部分は、ジョハリの窓で分類づけると「秘密の窓」を指していると考えられる。
日々を生きているが、その内面には誰にも悟られることのない重り/傷/苦痛を背負ってる。

僕は僕であろうとすると、つまり『何も失わぬようにと』過ごそうとすると、目に見える大切そうなものを維持しなければならない。
「俺は一体、何のためにこんなに忙しなく生きているんだ」と。

2番の歌詞において、『僕はたった一人だ 見知らぬ人々が 僕の知らない僕を見てる』という部分を見てみよう。
これはジョハリの窓では、「盲点の窓」という部分に相当する。
ジョハリの窓の文脈で「盲点の窓」は自分が気が付いていないが、他者は気が付いている「よさ」のような側面がフォーカスされがちである。
しかし、この尾崎においては、そういった「よさ」というものとは距離がある。

『仕事』というものは、否が応でも社会と関わることから避けられない。
もちろん、仕事は紛れもない私自身の人生の一部である。
私は、日々の生活、日々の仕事、日々の人間関係に、少しづつ影響を受け続ける。そして、その影響という変化値が目に見えるようになると、良い意味では成長、悪く捉えれば日々に染まってしまう。
等身大な感想として、こんなことを感じたことはないだろうか。
「仕事をしている僕と、ほんとうの僕って違うのだろうか。僕とは一体、どれのことなんだ」と。

仕事は我々に社会的な役割と責任を与えるものだ。
ときにその役割が、本来持っていた自分の資質を、その役割に染まるように、徐々に蝕んでいく。
そして、変化値が溜まり切った、その「染まり切った僕」を、僕は見つけてしまう。

僕は仕事をしている、でもこの仕事をしている僕は一体誰なんだ。
本当の僕、ほんとうらしさの僕は一体どこに行ったんだ。
仕事というのは、そんな「ほんとうの僕」というのを置き去りにしていきながら、日々を過ごすものなのかもしれない。

そんな「仕事をしている僕」を周囲は見つめる。
それは僕に期待している他人であり、僕に関わる他人であり、僕に降り注ぐ眼差しだ。
僕は他者の視点で、「仕事をしている僕」というものを引き受けさせられる。
その他者からの眼差しと、自己が「ほんとうの僕」に注ぐ眼差し。
この2つに乖離が大きいほど、とたんに淋しい気持ちになるだろう。

では、仕事を辞めたら、『一人』で生きていくなら、僕は「ほんとうの僕」に立ち戻れるのか。
しかし、それも難しい。
本当の自分を探そうとする試みは往々にして失敗に終わる。
行きつくのは、「自己の主体性、意志」と「周囲の環境、時代の流れ/枠組み」という対立構造だ。
つまり、『一人になって罪を消そうとしても 自分の戒律の罪は消せない
人は誰も罪人だから 覚えてきたものに捕まえられている』のだ。

自己省察の先にあるのは、自己との絶え間ない対話である。
彼は、「孤独と自己を見つめること」、「他者と分かち合うことと他者と生きること」の狭間に揺られている。
『一人になりたくない 争い合いたくない』のだけれども、それでも『僕はたった一人だ』という事実はどうしても見過ごせないのだ。

『僕は僕と戦うんだ』。
知らぬ間に、自分というのは対話相手から、克服すべき「敵」になってしまう。

3番の最後の歌詞『誰も知らない僕がいる』。
この『誰も知らない』の、『誰』とはどこまでを指すのだろうか。
これはジョハリの窓で分類すれば「未知の窓」に相当するのだろうか。
もちろん、この『誰も知らない』という事実に楽観さを感じることはできない。
どこか、こう、自分でさえも自分に手が届かない「もどかしさ」を感じるのだ。

繰り返しになるが、この曲のタイトルは《太陽の瞳》で、英語のタイトルは「Last Chiristmas」だ。
なぜ、尾崎がこの曲に「Christmas」を冠したのかは、少し調べれば出てくるだろうから、ここでは明言しない。
もちろん、曲中にて『戒律の罪』や『罪人』というフレーズから、宗教観めいたものは感じ取ることはできる。
また、彼の曲である《LOVE WAY》を参考にすることもできるだろう。

⑥放熱の証というアルバムについて

それでは最後に、《太陽の瞳》が収録されたアルバム「放熱への証」について触れていく。
このアルバムが尾崎豊にとってどのような位置づけで、どのような時期に発売されたのかも、こちらも調べれば出てくると思うので、明言しない。

アルバム『放熱への証』は以下のような曲が収録されている。

1.汚れた絆
2.自由への扉
3.Get it down
4.優しい陽射し
5.贖罪
6.ふたつの心
7.原色の孤独
8.太陽の瞳
9.Monday Morning
10.闇の告白
11.Mama,say good-bye

これは僕個人の感想としては、このアルバムだと《優しい陽射し》と《太陽の瞳》と《Monday Morning》が特に好きだ。

⑦ひとりか、誰かと生きていくかという相克

さて、このアルバムのテーマは意外とシンプルではないかと感じている。
つまり、「ひとりで生きるか」か、「誰かと生きるか」という対立/揺れ/相克だ。
そのような視点でアルバムの曲を見ていくと、アルバムの流れやテーマを分析し、分類することができる。

簡単であるが、一つずつ紹介していく。
ご興味のある方は、歌詞を調べていただけばと思う。

《汚れた絆》は過去の誰かとの結びつき(二人)を懐かしみながら、「一人」で生き始めている。

《自由への扉》は恋人たち(二人)というモチーフを元に、恋人同士は愛し合っているようで、どこか分かり合えない、もどかしい/切なさ/淋しさを表現している。

《Get it down》はすこし事情が違って、「回帰線」や「壊れた扉から」を思い出させるロックナンバーだ。歌詞は至ってシンプルだが、この「放熱への証」にこういった曲調があるということが、何か過去への羨望/執着のようなものを感じざるを得ない。

《優しい陽射し》これはシンプルだ。「二人」で生きていって、一緒に人生を育む態度だ。

《贖罪》は「一人」の「僕」が、『冷たい街の風』に冷たい視線を投げかけている。《Freeze Moon》で問いかける「未来」への漠然とした不安と情熱は消え去り、ただ冷たい「現実」に問いかけ続けている。

《ふたつの心》これも《優しい陽射し》と同様に分かりやすい。「二人」で生きていくラブソングだ。

《原色の孤独》は『立ち並ぶビル』への視線を投げかける。《街の風景》ほどの純真さや真っすぐさは欠片もなく、彼が見つめる街の風景は至ってニヒリズム的だ。似たようなモチーフの《RED SHOES STORY》はもう少し個人的な投影がされていたが、これは金/資本主義的/ビジネス/体裁に、ただ言葉を投げつけている。

《太陽の瞳》は先ほども述べたが、一言で表すならば「僕と僕を見つめる他人との関係」との曲だ。

《Monday Morning》は「ビジネスとひとりきりの僕との関係」の曲だ。《原色の孤独》で語った街の中に、飲み込まれている「僕」を歌っている。

《闇の告白》はシンプルかつ強烈に「ひとりの僕の内面を徹底的に見つめる」曲だ。つまり、「僕と僕との関係」の曲だ。そして、自己を見つめる手段としてのナイフは、自分を傷つけるのに使われた。

《Mama,say good-bye》は、一目見れば「僕と母との関係」の曲だと分かるだろう。

以上が、簡単だが「放熱への証」の曲の内容/テーマであると考える。
このような文脈で、改めて《太陽の瞳》を捉えなおすと、また違って意味を見つけること/つけていくこともできるだろう。
みなさんはどう感じ、考えるだろうか。


最も「尾崎豊らしい」のは間違いなく「十七歳の地図」や「回帰線」なのだろうが、尾崎の楽曲は、どの年代に関係せず、常に「僕」と「何か」との関係が歌われているように思える。
その対象は、時に「恋人」であるし、時に「母親」であるし、時に「彼」という「僕自身」だ。

僕は街のクラクションを感じ、僕は沈みゆく夕日と関わっているのだ。
そして、僕は愛を歌い、真実を求めて、その輪郭に手が届かずにいる。
自分とは、社会とは、愛とは、何か。
「What is ○○」が問いの根源的なものだ。


それでは、本NOTEの最後に、「放熱への証」に記載されている言葉を引用する。

生きること。それは日々を告白してゆくことだろう。

ちなみに告白(confession)は、「con(一緒に)+fess(認める=fateor)」という語源だ。
告白には他者が必要なんだ。
人はみんな一人ぼっちだけれども、一人では生きていけない。


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