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何かが見えることと「幸せ」について(ミニコラム)

1.はじめに

最近、飛蚊症のような症状が妙に気になったため、眼科に行ってきました。
数度の検査により、治療の必要がないものと分かり、考えることが減ってハッピーです。

眼科の検査を受けた際、いろいろ考えたため言語化しました。

もし仮に私が目が見えなくなる(全盲)になったとしたら、「私は幸せに生きていけるのだろうか?」と自問しました。

2.過去の人物から考える

まず思いついたのは、実際に目が見えない方で「私は幸せに生きている」と話されていた方の講演でした。
次に三国志の武将の夏侯惇で、彼は演技にて目に矢を受けたのち、その目を喰らったというエピソードです。
日常生活においてそのような失明のリスクがないことは幸いであると思います。
また戦時中に目を失ったわけではないですが、伊達政宗も隻眼の武将としてとても有名です。また、美術家のミケランジェロは過酷な創作活動の中で、目を失明しかけたようです。

話を目から耳に移せば、聴覚を失った偉人ではベートヴェンが真っ先に思い出します。
彼は自分の作品がちょうど世間に認められつつあった最中に聴覚を失いました、その苦悶は彼の文章から読み取ることができます。
少し違いますが、画家のゴッホはゴーギャンとの一件から自らの耳を切り落とします。

それでは、このような過去の偉人のことを思いついたときに、視覚や聴覚があること/失うことは幸せに生きていくことと、どう関係していくのでしょうか。
私がもし目が見えなくなったら、真っ先に思いつくのは「本が読めなくなって困る」です。
聴覚を失ったら、「音楽が聴けないし、歌を歌いにくくなる」です。
もちろん、日常生活や仕事に選択肢に影響を及ぼすことは、明らかですが、とりあえず思いつくのは本と音楽でした。

3.物質的に見えることと、精神的に見えること

それでは、仮に「物質的な視覚」と「精神的な視覚」というものがあることにしてみましょう。
簡単に定義をするならば、「物質的な視覚」は一般的に言われる「目が見えること」です。視力が適正であることです。視界が適正であることです。(一般的は僕が生きている現代社会だと大体こういう感じだよねの言い換えです)
一方、「精神的な視覚」は「ものの受け取り方」です。つまり、認知行動療法でいう所の「認知」です(よく歪むやつです)

それでは、物質的な視覚を失っているが、精神的な視覚を保っているケースを考えます。
とりあえず、便宜的に「正しく視る」という言葉を使用しますが、そんなに深い意味はありません。
そのケースにおいて「物質的には(仮定として)光を得ることができず、目の前の景色を見ることができない」わけです。
つまり、一般的には障害(Disorder,Disability)として分類されます。
その一方、彼は目が見えない自己を受け入れ、その上で生きているようです。「精神的な視覚」において彼はとても安定しているようです。(最も、そこに至るまでにどのような苦悩や困難があったのかはベートヴェンの人生からも想像することができます)

その場合において、彼は『物質的な視覚を失っているが、精神的な視覚を保っている』わけですが、彼は「幸せ」なのでしょうか。
私は直感的(あまり深く吟味せずに判断をする限りにおいて)は幸せだろうと考えます。

では、次にその逆のパターンを考えてみましょう。
つまり、『物質的な視覚を保っているが、精神的な視覚を失っている』ケースです。
その具体例はうつ病を始めとした精神疾患が、先ず思いつきます。
つまり、生きずらさを抱え、心に平穏がない状態です。また、平穏を偽装するために多大な労力を割く状態です。
その場合において、その方は視力は良好で、眼鏡もなく生活しているようですが、目の前に見える/起こる出来事に翻弄され続けています。
他者からの言葉に翻弄され、自己の心の動きに戸惑い、社会的な常識に縛られ、凄惨なニュースに心を動かされ続けています。

その場合において、その方は「幸せ」なのでしょうか。
こちらも直感的においては「不幸である」と判断します。

整理しますと、ここまで私は「物質的な視覚」が「ある/ない」と「精神的な視覚」が「ある/ない」という2×2のマトリックスにおいて、考えを進めているわけです。
2×2だと4パターンしかありませんので、ついでに触れておきますと
「物質的な視覚」が「ある」、「精神的な視覚」が「ある」場合は幸福でしょう。
「物質的な視覚」が「ない」、「精神的な視覚」が「ない」場合は不幸でしょう。
つまり、このようなシンプルな思考から読み取れることは、精神的な視覚が幸福/不幸に影響を与えているということです。

4.近視とサポートの関係について

少し、話を変えると「近眼」であるケースはどうでしょうか。
多くの方は近視になると、眼鏡をかけたり、コンタクトレンズをつけます。私も眼鏡をしています。
そのような支援(support)ツールを用いることで、私はいわゆる正常値の視力を得ています。

例えば、この世に眼鏡というツールがないことを考えてみましょう。
その場合においては、私は視力を適正に矯正することができず、日常生活には困難を覚え、社会生活に必要なability(能力)を失っています。
その結果、私は社会生活という注文に対して、order(応答)することができず、社会的に「近視」の人は障碍者と分類されてしまうかもしれません。
改めて、眼鏡というツールを発明した方や眼球の仕組みを解明した方に感謝をしたいという念が生まれます。

では、(専門外なのでイメージを多大に含みますが)全盲の方はどうでしょうか。
一般的には杖、点字ブロック、点字、盲導犬、音声ガイドなどが、福祉的なサポート、いわゆるバリアフリーとして思いつきます。
その場合においては、目が見えないというDisabilityに対して、歩行が可能になる支援をしていると捉えることができます。
その結果、全盲の方は、自宅以外の室外においても歩行ができるようになり、日常生活で歩行ができないというDisorderを幾分か軽減させているように見えます。

話を整理しますと、私は一般的に言われている障碍というものをDisorder,Disabilityという観点から捉えたほうが良いのではないかと考えています。
また、それに付随する「支援(support)」という意味合いを適切にとらえる必要があると思います。(この部分は大学教授から学んだの受け売りが強いです)
つまり、眼鏡はsupportツールとして成立しています。
なぜなら、眼鏡は視力を矯正し、適切に見えるように補助をしてくれます。
しかし、物を見る主体は、サポートされる側にあります。つまり、サポートをされた方(この場合だと眼鏡をかけた人)は、その方の思うように物を見て、見るものをコントロールできる状況にあります。
これがサポートするという本質(いい感じな要点だよね)だと捉えています。
つまり、眼鏡というサポートを受ける下で、サポートを受ける人は、成長する機会を自ずから獲得する自由があり、主体性は損なわれていません。

一方、一般的に言われる「不適切なサポート」はこの要素を満たしていません。
つまり、サポートされる方は「その方の思うようにコントロールできず、自ずから獲得する自由がなく、主体性は損なわれている」のです。
例示をすると、高齢者の方の足腰が衰えており、歩行の際の転倒リスクがある場合を考えてみましょう。
その場合において不適切なサポートは、高齢者の手足を拘束していすやベットに固定してしまうことです。
もちろん、そのサポートの目的は「転倒を割けること」にあります。しかし、人間の主体性を損なってまでするには、あまりに代償が大きいように見えます。

それでは、歩行の際に歩行器やシルバーカーを使うことを考えてみましょう。
この場合において、歩行器はサポートされる側の自由と主体性を奪いません。
その方の思うように立ち、歩き、そこで生じる転倒リスクを減少させてくれる、支援ツールです。

少し余談ですが、「善意の盲信」とは恐ろしいもので、「善意の押し売り」ほど自己と他者を不幸にするものはありません。
「私はあなたのためを思って、(転ばないように)手足をベットに固定しているのよ」
どうでしょうか。
いくら善意から生まれた行動だからと言って、それが正しい/適切である保証などどこにもないのです。
しかし、このような善意の押し売りは、教育において、親子関係において、上下関係において、よく潜んでいます。
このようなことは、私が発達障害支援を学んだこと、実際に支援を行ったこと、また認知症の方と関わる中で、特に感じることです。

5.幸福と社会から疎外されるレッテル

少し話は変わりますが、このDisorderという観点と、「幸福」という観点は関連のうちに存ずるのではないでしょうか。

このDisorderという概念を、「社会生活における役割を果たせること」と定義づけてみましょう。
キルケゴールが『死に至る病』で指摘しているように、人間は関係の関係のうちに存ずるところものです。
私たちは日常生活において他者との関係の内にあり、その他者からの期待や社会からの期待というものに否が応でも晒され、応えられているか/いないかという眼差しを受けます。

もし仮に、全く他者と関わらない人を考えてみますと、アドラーが述べたように「無人島で生活したロビンソンクルーソーがどんな性格だろうと、誰も気にしない」わけです。
つまり、自分がどんな性格にみられるか、どんな人に思われているかなどの、悩みは人間関係にあるわけです。
また、三木清が表現したように『孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の『間』にある。』わけです。
我々が孤独を覚えるときは、社会から逸れたときであり、他者から疎外されているときにあるのではないしょうか。

話は逸れますが、日本で一般に言う「障碍者」というレッテルは、社会からの疎外というものを包含しているように見えてしまいます。
不登校であること/無職であること/自立した生活を送れないこと/ありとあらゆる疎外を内包したレッテルの表現は、自己に眼差しとして降り注ぎます。
また我々はそのような眼差しを他者に向けて、レッテルを貼ってしまっているわけです。

つまり、Disabilityから生じるDisorderという性質は、「他者からの期待に応えられない」という実感を持って、我々を不幸の内に陥れようとします。
それは一般的表現として、無力感/無能感/無価値という感覚/価値観を根付かせるには十分です。
ニーチェが『道徳の系譜』にて指摘したように、「無意味に苦しむ苦痛を避けるために、苦しみに意義を与えよう」とします。
つまり、そのような社会から生まれる眼差しから生じる、無価値感による苦痛、生きづらさを、何とかして意義を持たせて、強い肯定をする他にないのです。

しかし、その肯定はどこか「強がり」で「寂しさ」を覚えさせます。
尾崎豊が『卒業』という歌で『夜の校舎 窓ガラス壊して回った』のも、こういった類の心理状況なのではないでしょうか。

それでは、僕たちはこの生きずらさとどう付き合っていけばいいのでしょうか。
僕たちはいつになったら幸せになれるのでしょうか。
こんなにも食べるものに、娯楽に、「物質的」に生きることに何一つ不自由しない可能性が高い社会なのに。

最後に歌詞の一節を引用します。

好き嫌いなく食べろと言われ育った
大人の言うことを信じろと言われ育った
答えがあるならば出さなければならなかったし
嘘をつくなと言われて育てられた
僕たちの親が作った経済大国
だけど文明はどこかで一人歩きしている
法律の名のもとに作り上げた平和
だけど首をひねって悩んでいるのは何故

尾崎豊『COOKIE』より引用            

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