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定圧条件での膨張仕事

気体が外界に仕事をする,とはどういう意味か?

 気体を発生する化学反応の例は多くあります。例えば中学理科で学習する炭酸水素ナトリウムの熱分解反応では二酸化炭素を発生して系の体積は増加します。

$$
2NaHCO_3 (s) \xrightarrow{}  Na_2 CO_3 (s) + H_2 O (l) + CO_2 (g)
$$

 気体の体積が増加する時,気体は必ず大気圧を押しのけて,その空間を確保しなければなりません。その際,気体は外界に仕事をした,と表現されます。そこで今回は,「気体が外界に仕事をする」という言葉の意味について考えましょう。

力学における仕事の定義と位置エネルギー

 まずは,力学における仕事の計算方法について確認します。重力場で物体を$${\Delta z = z_f - z_i}$$だけ持ち上げる動作をエネルギー的世界観で見ると,「物体に仕事$${W}$$をすると位置エネルギーが$${mg \Delta z}$$増加する」と表現されます。

物体を持ち上げる時の仕事の計算方法

 仕事の定義は$${W = F \Delta z}$$で,$${F}$$は「外力」なのですが,この場合,外力は上向きの力$${F}$$なのか,下向きの重力$${-mg}$$なのか,迷いませんでしたか?私は迷いました。

 仕事とは系と外界との間のエネルギー移動量なので,系と外界の区別をハッキリさせなければなりません。今回の場合,物体を系と考えます。この物体はヒモでぶら下げられており,そのヒモを人間が引っ張っていると考えると,この「ヒモと人間」が外界に当たります。そうすると外力とは,系の外から加えられる力$${F}$$に相当します。

 さて,結論から言うと,位置エネルギーは変化の前後の2つの地点$${z_i, z_f}$$において外力と重力の大きさが釣り合っている($${F = mg}$$)場合のみ,$${W}$$の大きさが位置エネルギーの増加量$${\Delta P}$$に等しくなります。

$$
W = \Delta P = P_f - P_i =mg \Delta z
$$

 もし位置$${z_f}$$で外力の方が重力よりも大きくなっていた場合,物体は上向きに速度$${v}$$を持つので,加えた仕事は位置エネルギーの増加量$${\Delta P}$$と運動エネルギーの増加量$${\Delta K = \frac{1}{2}mv^2}$$の和になります。

「ゆっくりと持ち上げる」の意味

 教科書ではしばしば,物体を「ゆっくりと」持ち上げることが強調されます。これは外力と重力が釣り合った状態のまま物体を移動させることを意味します。こうすると,物体は移動中,常に($${F = mg}$$)が成り立つので,$${W = mg \Delta z}$$になることが簡単に計算できます。

 ただし,「上向きの力と下向きの重力が釣り合ったら,物体は持ち上げることができないのではないか?」という疑問を持つかもしれません。

 この点については心配ありません。物体に働く力が釣り合っていた場合,その合力はゼロなので,物体には力が働いていないのと同じです。そのような場合でも,慣性の法則によって物体は上方向に等速直線運動が可能なのです。ただ,頭ではわかっていても,慣性の法則を感覚的に受け入れることは難しいですね。

 それでは,物体を必ず「ゆっくりと」動かさなければ仕事の式を使えないのか?というと,そうではありません。

 例えば,急加速・急減速を行ったとしても,出発地点と到着地点の2点でのみ釣り合いを保てば,$${F = mg}$$と置くことができるため仕事量は$${W = mg \Delta z}$$になります。なぜなら,位置エネルギーは状態量であり,経路に依存せず2点間の状態のみに依存するよう定義されているからです。

 皆さんは高層ビルや東京スカイツリーにあるような,高速で上昇するエレベーターに乗った経験はありませんか?エレベーターが出発して急加速すると,体重がズシンと重くなったように感じます。最上階に到着する前,自分の体が宙に浮きそうになり,少々吐き気がします。これは急減速しているのです。

 エレベーターは地上階と最上階では必ず静止します。この場合は,階段を使ってゆっくりと登った場合でも,高速エレベーターを利用して短時間で登った場合でも,最上階で私たちが得た位置エネルギーは同じです。これが「道具や装置を使っても仕事の総量は変化しない」という仕事の原理です。

大気圧と気体の圧力

 では次に,気体の圧力について考えます。今,質量と摩擦が無視できる可動壁がついたピストンの中に気体が入っているとします。気体を系,それ以外の部分を外界と呼ぶことにします。

 ピストンには常に一定の大気圧$${P_0}$$がかかっていて,それが系の圧力$${P}$$とつり合っているとき,系は平衡状態にあります。

大気圧と系の圧力の釣り合いと力学的世界観

 今,ピストンにかかる力を$${F}$$とし,ピストンの断面積を$${A}$$とすると,$${P = F/A}$$と表されます。もしピストンの断面積を単位面積と同じであるとすれば,ピストンにかかる圧力$${P, P_0}$$は力$${F, F_0}$$と同じになります。

 教科書では,ピストンを挟んで系の圧力と大気圧を表す力の矢印が向かい合ったような図が載っていることがあるのですが,ここでもまた力学の時と同じような「迷い」が生じます。つまり,仕事の計算をする際に,どちらの圧力を使ったらいいのか,わからなくなります。

 こういうときは,力学的世界観に置き換えてみるとわかりやすくなります。私たちは大気圧を見ることも,肌で感じることもできません。そこで,いったん頭の中で,系の外側にある空気を全て取り除いて真空にします。そのかわり,大気圧が常に一定で変わらないという事実を,質量$${m}$$を持ったひとつのおもりとして視覚化して表現します。

 すると,力の矢印の位置は入れ替わります。ピストンは外界という名のおもりから下向きの力$${F_0 = -mg}$$を受けるとともに,おもりは系から上向きの力$${F}$$を受けます。両者が釣り合った時,ピストンは静止します。

膨張仕事の式

 系にとっての外力とは,外界からの圧力$${P_0}$$で,それはピストンの移動方向とは逆向きです(負の仕事)。したがって,$${\Delta V = A \Delta z}$$を考えると,系が外界にした仕事は以下のようになります。

$$
W = -F_0 \Delta z = -\dfrac{F_0}{A} A \Delta z = -P_0 \Delta V
$$

 系が外界にした仕事が系の圧力$${P}$$ではなく,外界からの圧力$${P_0}$$のみに依存するという事実は,少々感覚的に受け入れ難い面があるのですが,物理を学ぶ時は,感覚に頼るのを止めて思考に頼っていく必要があります。

膨張仕事とエネルギー図

 気体が膨張する際の力学的な世界観を考えると,次のようになります。まず始状態では系の圧力$${P}$$と大気圧$${P_0}$$が釣り合っています。次に化学反応などで気体が発生して系内の気体の量が増え,体積が$${ \Delta V}$$だけ増加したとします。その後,平衡状態に達して終状態になると,再び系の圧力$${P}$$と大気圧$${P_0}$$が釣り合います。

 始状態から終状態に至る過程として,可逆過程と不可逆過程の2種類があります。可逆過程では,変化の間も$${P_0 = P}$$の平衡状態を保ちながら「ゆっくりと」膨張する理想的な過程です。

 もしこのような操作が可能だった場合,$${P_0 = P}$$と置換できるので,仕事は系の圧力$${P}$$を使って,次のように計算できます。

$$
W = -P \Delta V
$$

 一方,不可逆過程では$${P_0}$$は一定のままですが,非平衡状態なので気体の圧力$${P}$$は定義できません。このような場合でも,仕事は外界の圧力$${P_0}$$に依存するので,系の圧力がどのような時間変化をしたか,といった経路に関する情報は仕事の計算には全く不要です。

 ただし,始状態と終状態の2点だけは$${P_0 = P}$$と置換できるので,不可逆過程であっても系の圧力を使った式$${W = -P \Delta V}$$を使うことができます。

 つまり定圧条件に限っては,可逆過程であっても不可逆過程であっても,仕事は系のみの状態量$${P, \Delta V}$$で表現することができます。

エネルギー図で見た膨張仕事

 次にこれをエネルギー図で考えます。「おもりが持ち上げられた」ということは,気体の膨張によって外界のエネルギーが増加したことを意味します。これは仕事として系から外界に移動したエネルギーなので,系の内部エネルギーは減少します。

 逆に体積が減少するとエネルギーの流れは逆になります。おもりが下がるということは,外界の位置エネルギーが減少することを意味します。その結果,系には仕事としてエネルギーが流れ込んできます。

 つまり,系の気体が膨張して外界に仕事をすると,エネルギーは外界に移動しますが,なくなるわけではありません。移動したエネルギーは外界に蓄えられ,再び気体の体積が減少すると,外界から仕事としてエネルギーが流れ込み,系の内部エネルギーは増加します。

 私たちは系に注目すると,外界のことを意識しなくなりがちですが,外界にもエネルギーを蓄えられることを知っておきましょう。

まとめ

  • 膨張仕事の大きさは外部から系に及ぼされる外部圧力$${P_0}$$と系の体積変化$${\Delta V}$$の積で表される。

  • 定圧条件の場合に限って,外部圧力$${P_0}$$は系の圧力$${P}$$に置き換えることができる。

  • 系が外界にした仕事は外界の位置エネルギーとして蓄えられる。

  • 気体が圧縮された時,外界から仕事の形をとったエネルギーが系内に移動するので,系の内部エネルギーは増加する。


演習問題

例題1
 25℃において50 gの鉄と塩酸とを反応させて$${FeCl_2 (aq)}$$と水素が生成した。それが開放したビーカーで起こるとき,なされる仕事を計算せよ。

ヒント
 気体が発生した後の終わりの体積は非常に大きいので始めの体積は無視できる。つまり$${\Delta V = V_f - V_i = nRT/P_0}$$となる。ここで,$${n}$$は生成した水素の物質量である。また,Feのモル質量は$${55.85 g mol^{-1}}$$である。

アトキンス「物理化学(上)」第10版,p. 72

例題2
 圧力一定のもと,25℃において$${50 g}$$の水を電気分解するときになされる膨張の仕事を計算せよ。[答: $${-10 kJ}$$]

アトキンス「物理化学(上)」第10版,p. 73



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