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「変わらない」という実験がどうして大切なのか

 今日は教育実習の一斉研究授業日で,私も教育学部の学生さんの授業を聞きに行った。今回は小学校理科・化学分野の「ものの重さ」という単元の授業を聞いて思ったことを書いてみたい。

小3理科「ものの重さ」の授業

 まず,先生(教育実習生)が突然,椅子の上に乗って,みんなを見渡した。

「これは体重計だとします。まっすぐ立つ場合としゃがんだ場合で,体重は変わるかな?」

 背の高い先生だったので,みんなの注目が集まった。なんだか面白そう,と思った。つかみはOKだ。

 何人かの子供が手を挙げて,「変わらない!」とか「重くなる!」とか答えていた。小学校3年生ってすっごくかわいい。

 「じゃあ,体重計はないので,これからこの電子天秤に,粘土とアルミ箔を乗せて調べてみよう。」ということになった。

  • 粘土の形を変えたら,重さは変わるのか?

  • アルミ箔を広げた場合とギュッと丸めた場合とで,重さは変わるのか?

この2つが問題となった。

 前回,同じ大きさでも重さが違うものについて学んだばかりだ。アルミのブロックは,同じ大きさの木のブロックよりも重たい。だから,軽そうに見えるペラペラのアルミ箔でも,手でギュッと丸めてしまったら,アルミブロックのように見えないこともない。

 授業では,いろんな意見が出た。ちょっと聞こえづらくてみんなの言葉が聞き取れなかったけど,重くなる,軽くなる,変わらないの3つの可能性に分かれたことだけは覚えている。

さあ,班ごとに実験だ!
・・・そして結果が出た。

アルミ箔は,全ての班で「変わらない」という結果が出た。
粘土の方は「変わらない」となったのは2班だけで,他の多くの班は「変わった」という結果を得た。

実験の結果をどう解釈するか

 粘土の重さが変わった理由について,子供からはいくつか意見が出た。この実験結果をどう解釈するかは理科の重要な問題だ。

  • 事実は事実。実験結果を,そのまま正確に記録して,嘘をつくことなく報告することが大切なのか?

  • あくまでも,粘土でもアルミ箔でも「重さは変わらない」ということを教えることが大切なのか?

変化しない実験

 YouTubeの実験動画や「科学実験教室」などの子ども向けの実験イベントでは,色が変わったり,爆発したり,大きな音がしたりするような「大変化」が紹介されることが多い。

 そのような実験に慣れていると,「何も変化しない実験」というのは、つまらないと感じる。前回紹介したゲイ・リュサックとジュールの実験も同じで,「空気は自由膨張しても温度は変わらない」という結果だった。

 100年以上前に行われたこの実験が,どうして今も伝えられているのだろう?何が面白いのだろう?

 実は,理科で本当に大切なことは「変わらないこと」を見つけることなんだ。

プラトンのイデア

  紀元前400年くらい前の哲学者にプラトンという人がいた。彼は万物を「作られたもの」と考えた。

 例えば,現実には様々な机がある。それらのたくさんの机は,それが作られる前から存在する理想的で完全な机の「イメージ」を参照して作られたものだ。だから現実に存在するものは不完全であり,その設計図であるイメージのほうを「本当に存在するもの」であると考えた。これがイデアなのだろう。

 彼から始まったものの見方は,その後キリスト教の世界観にも影響を与えた。なぜなら,キリスト教でも,世界は「作られたもの」だから。中世末期の自然哲学者たちは,神様がどのように世界を設計したか?ということを知りたかった。そういう努力の中から生まれたのが,科学なんだ。

科学は現実ではなく理想(イデア)を探求する

 「アルミ箔は重さが変わらないけど,粘土は重さが変わります」という事実確認だけが実験じゃない。実験する前に「どんなに変化するように見えても,重さだけは変わらない」という信念がなければならない。そうでなければ,重さが変わる理由を考えようとはしない。

 そしてその前提には「永遠で絶対に変化しないものこそ本当の存在」「変化するものは流れる川にできる渦のような,一時的な存在にしか過ぎない」という西洋独特の考え方がある。

エネルギーも不生不滅だ。現実の物体が,いくらエネルギーを「消費」しているように見えても,そのままの現実は信じない。エネルギーは保存するはずだ,という信念は揺らがない。

 ジュールの実験を満足する気体こそ「理想気体」である。統計力学によれば,それは運動量のみを持った「点」の集まりであり,いくら高圧でも,温度が絶対零度になろうとも,液体や固体にはならない。そのような物質は現実には存在しないが,科学はそんな非現実的な気体ばかりを議論する。

 物質がどんなに変化しようとも「質量保存の法則」があって,その信念は捨てない。そうであってこそ,木が燃えるとその灰は軽くなる理由や,スチールウールを燃やすと重くなる理由を考えざるを得なくなる。

 どれも,なんと「信仰」に似ていることか。この部分は,日本人の持つ自然観とはずいぶん違うように思う。

西欧の自然観

日本人にとっての自然

 西欧化する前の日本人であれば,自然と共に生き,あるがままの自然から学ぼう,と考えるのではないだろうか。そうであれば,粘土は粘土,アルミはアルミで変形する時に重さが違っていても別に不思議なことではない。世界は多様性に満ちているのだから。

 科学は地域を超えた普遍性を持ってはいるが,一方で,西洋文化の一部でもあることに気づかされる。科学を教えることが,古くからの日本人の自然観を忘れさせることにつながる可能性も,心に留めておく必要があると思う。

日本の自然観

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