わっとねーむ はういーと
ケイトウ、という花の名前を初めて聞いたときは「毛糸に似ているからか」と疑わなかったけれど、最近は少し疑っている。どういう由来でその名前になったのだろう。久しぶりに見たケイトウはやっぱり毛糸に似ていて、ケイトウと呼ばれていた。でも名前を聞いても鮮やかな感動はなく、脳裏を「まさか毛糸に似ているからか」と疑念がよぎったあたりこれが大人になったということだろう。世を渡るのに知識を鵜呑みにしないのはこのネット社会で特に重要なスキルだから成長はめでたいけれど、脳みそいっぱいに「あなたトトロっていうのね!」みたいな喜びが走らないのはつまらない。こういうのをつまらない大人っていうのか。許してやって欲しい。口に出して大声では言えないが、まだケイトウの名前の由来を半分ぐらい毛糸だと思ってる。
花屋でケイトウが出てきたとき聞けば良かったかも知れないと思うけど、あのときはケイトウの英語名を聞き返すのに必死だったし、スーパフードとして食べられているという事実にびっくりするので手一杯だった。このままケイトウの由来は知らない大人として生きていきたい。
花屋さんはフレンドリーで、その旦那さんがやっているカレー屋さんもフレンドリーだ。なんでも聞いたら教えてくれて、この前もカレー屋さんで出てきた毛沢東スペアリブとは何なんだと聞いたら快く教えてくれた。この世には毛沢東スパイスというものがあるらしい。毛沢東が愛したそうだ。このぐらい世界が直球勝負だと邪推もないだろうに。
父がとにかく知りたがる人で、なんでも人に聞く。聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥、を地で行く人なのだ。イギリスにいたときはスーパーで見知らぬ野菜を手に取って、ちょうどその野菜を吟味しているおばさまに「これはなんの野菜で、どうやって食べるのだ」なんて聞いていたらしい。ちなみに父はちっとも、まったく、英語が話せない。聞くだけ聞いて、あとは母に会話をぶん投げていたそうだ。そのとき私は齢五歳。母が大変すぎる。父は指差して「はう いーと」と言っていたそうだ。
まぁこの遺伝子が覚醒しつつあるのか、ケイトウの理由は聞けずとも、たいがいなんでも人に聞くようになった。知識ある人の話はとても面白い。ちょっと声をかける勇気を持つだけで色々教えてもらえる。知識ある人はその知識をわけることにも積極的になってくれて、優しく深く教えてくれる。
五歳児のときはかなり人懐こく、とてもかわいがられていたそうだ。それがどこで何をしたのか、決定的なエピソードがあったわけではないと思うが、いつのまにか人を怖がるようになっていた。コミュニケーション能力が壊滅していた。なんでさ。
大学、就職活動、そして社会人暗黒期などを経て、今、人と話すことがとても楽しい。そうなれた自分がとても嬉しい。なにか吹っ切れた感覚があって、それは人間への期待値とか丁寧さとかそういうものかもしれない。そんなもんだ、という割り切りはむしろ世界と私を近くしてくれた。時に雑になる部分を間違えそうになるから、それだけ注意したい。でも全員に丁寧でなくていい、というのは青い私には天啓のような救いとなった。
今度、お花屋さんにいったらケイトウの英名をもう一度聞いてみよう。是非食べてみたい。
でもケイトウの由来は聞かない。