とがはらみ ーかりはらの贄巫女ー シーン2①
翌日の早朝に、叶は家を出た。
春に取ったばかりの免許がようやく役に立つ。中古で買ったけれど、あまり利用してなかった軽自動車に乗り、菟足村を目指した。
菟足村は山間にある山池、おみず沼より下流にある。近くに温泉が湧いていて、県内では湯治場としてそこそこ有名だ。
菟上家は菟足村の外れ、おみず沼近くに屋敷を構えているらしい。そこに行く前に、おみず沼をぐるりと囲むように敷かれた県道を通り、ネットで集めたおみず沼にまつわる怪談の現場を見ていくつもりだった。
明け方に降っていた雨も出かける頃には止んでいた。晴れていたら、透明度の高いエメラルドグリーンの色合いを見せるおみず沼が拝めると思っていたが、山の木々の間から垣間見えるおみず沼の水面は、あいにく灰色の空を映し、くすんだ青色に染まっていた。
国道を外れて県道に入る。その途中、菟足村の村境に道祖神が祀られていた。道祖神は、村内外の境に置かれ、村を疫病や悪霊から防ぐと言われている。また旅人の安全を守る神でもあると本で読んだ。
おみず沼の周辺には、菟足少年自然の家の廃墟、菟足公園、美豆神社の神域とされる沼にせり出した畔と、沼に半分浸かっている鳥居がある。それ以外は手つかずの原生林に取り囲まれて、風光明媚なたたずまいを見せている。
県道をゆっくりと車を走らせて、廃墟や公園の外観を見ていく。おみず沼の東西南北には道祖神があって、廃墟の道祖神に至っては首と胴体を真っ二つに割られて壊されていた。
よく観察しようと、叶は路肩に車を停めて、デジカメを手に壊された道祖神に近寄っていった。
道祖神自体は比較的新しいもののようだ。真っ二つに割られた断面に苔が蒸していることから、ずいぶん前に壊されたと推測できた。台座は古く、いつからここに建てられていたのか、想像もつかない。元号か何か彫られてあればいいのに、と叶は残念に思う。
廃墟——菟足少年自然の家には、運営しているときからあまりいい噂はなかったようだ。叶が知っているだけでも、少なくとも数件の水難事故があり、運営困難に追い込まれた。
もともと、ここ一帯は菟上家の敷地だったが、明治初期に県が買い上げたそうだ。今残っている美豆神社の神域は、廃墟からすぐ目の前に広がっている、せり出した畔のみらしい。
叶は、廃墟をいろんな角度から撮り、次に廃墟からごく近い、美豆神社の鳥居を見に行く。
美豆神社の鳥居はせり出した畔の先にあった。鳥居を見るために畔へ歩み寄る。せり出した畔にだけ、木々がなく目の前に広がる大きな山池を一望できる。澄んだ水が打ち寄せる岸辺があり、視線の先に半分ほど水面に沈んだ石作りの、よく見かける神明鳥居が建てられていた。拝殿はないかと見渡したが、見当たらない。
美豆神社の祭神は淤加美神おかみのかみで、祈雨や止雨の神である。神社が建てられたおみず沼は酸性度の高い水質なので、農業用水には向かない。しかし、干ばつの時でも水が枯れなかったことから、大昔の菟足村の村民、菟上家はこの沼には神がいると信じたのだろう。確かに満ち満ちた水面を晴れているときに見たなら、きっと神秘的に見えたはずだ。
それにしても、『おかみさま』の祈祷場はどこなのだろう。さすがに郷土資料本を調べてもそのことは書いてなかった気がする。
美豆神社の鳥居や、せり出した神域の畔の画像をデジカメに納めて車に戻り、県道を道なりに行くと、魔のS字カーブと呼ばれる場所がある。トンネルを抜けてすぐの、見通しの悪いカーブにさしかかった。ここではS字カーブを曲がりきれず、事故を起こす車が年に何台もあるそうだ。なぜ事故が起こるのか、叶は不思議に思う。
唯一のカーブミラーが破損しているのに修理もされていない。対車と言うよりも、対人に向けて作られたカーブミラーなのだろうか。
凹んだガードレールのそばに、すでに雨に汚れた花束が置かれていて、灰色に汚れている。缶コーヒーやジュースなど備えられているところから、若者や子供が犠牲になったのかもしれない。
ガードレールの向こう側は崖になっていて、落ちたらおみず沼まで真っ逆さまだ。何人かの犠牲者がここからおみず沼に落ちたかも知れない。
それを考えると、カメラに収めるのは気が引けて、しんみりとしてきた叶は花束に向かって手を合わせた。
おみず沼の遊歩道、公道より低い位置にある菟足公園は、沼を半周する細長い道で構成されている。遊具などはなく、休憩所の東屋と畔に組まれた、木材を模したコンクリートの道だけだ。整地される前なら、ここも原生林だっただろう。
おみず沼をぐるりと一周し、廃墟にあったものを含めた四体の道祖神が、おみず沼の東西南北に据えられているのにも興味を持った。道祖神がおみず沼を囲っているのには、意味があるのだろうか。
いったん、車を公園の駐車場に停めて、今まで撮った画像を確認する。何気なく眺めていたが、ふと気づくと画像の何枚かに人影が写っている。でも明らかに人間ではない。
尺的に異様に小さいか、遠近法を無視しているように大きいか、もしくはあり得ない角度から顔を覗かせて写り込んでいる。凝視しているうちに、右前の衿から和装の女性だとわかった。
顔立ちはなんとなく識別できる。モノクロの顔色をした、整った目鼻立ちの女性だった。長い黒髪で黒っぽい着物を着ている。
それにしても、廃墟やほかの場所に、自分以外の人間などいただろうか。叶しかいなかったように思う。それとも、これらの画像に収まっているものは、目の錯覚なのか。
三点の黒いシミや点が集まったものを見ると、人は人間の顔と錯覚する。それを、シミュラクラ現象と呼ぶ。画像の顔は叶の見間違いかもしれない。
すぐに、気のせい、と叶はデジカメの電源を切った。心霊スポットだと聞いているから、衝撃的な画像を期待してしまったのだろう。普通に過ごしていても、見たくないものが見えてしまうのに、おみず沼に関する画像には写っていてほしいとでも潜在意識では思っているのだろうか。
幽霊のようなものを見たからと、無条件に全てを認めたくなかった。
それにそんな考え方、何でも幽霊のせいにする類いの人間と同じだ。
叶は自分が見る雨の日の幽霊のことを思い出した。あれも気にしすぎてしまってはだめなものだ。怖がれば怖がるほど、あれ・・は近づいてくる。
気味の悪い考えを振り払うように、デジカメを助手席のバッグに突っ込んで、叶は車のエンジンをかけた。
そろそろ菟上家に行かねばならない。十一時前には着きそうだ。ここから五分も離れていない場所にその屋敷はある。怪談の現場を巡って気分転換になったが、菟上家のことを考えると気が重くなった。
県道を外れ、舗装された林道をしばらく上っていくと、砂利道に出た。菟上家の屋敷はそこからすぐのところにあった。
すでに何台も車が、模様のある白い朽木幕を垂らした門の前に停められている。叶のほかにも喪服姿の弔問客がちらほらと見られた。
叶も一番端に車を停めて、喪服を入れたバッグとスーツケースを車から降ろす。助手席のハンドバッグを肩にかけて、両手に荷物を持ち、瓦が葺いてある門をくぐった。
門と同じように幕を垂らした玄関まで、飛び石が並んでいる。叶は物珍しげに幕を眺めた。仏式ならば、鯨幕と同じものなのだろうか。
菟上家は祈祷師の家系だと聞いていたので、もっと特殊な葬儀だと思っていたが、意外にも菟上家の葬儀は神式のようだった。
玄関は開け放してあり、黒い靴が並んでいる。靴の数だけ見ても叶が想像していた以上の人数が、屋敷に集っているようだ。
勝手に上がるのはためらわれて、叶は廊下の奥に向かって声をかけた。叶の後からきた弔問客が、訝しげな様子で叶をじろじろと見ながら靴を脱いで屋敷の中へ上がっていく。
「すみませーん」
何度か声をかけていると、奥から喪服の女性が出てきた。
「もしかして叶さん?」
先ほどの弔問客と同じような様子でじろじろと見てくる。
「氷川叶です。このたびは御霊みたまのご平安をお祈り申し上げます」
氷川を強めに名乗り、母親に教えられた通りに挨拶をした。
普段着で来た叶を不思議そうに見る。
「喪服は?」
叶は右手に持ったバッグを掲げる。
「着替えたいんですけど、お部屋を借りられますか?」
思っている以上に叶の来訪は喜ばれているのか、すぐに屋敷の一室に案内された。
部屋には、叶と趣味が合いそうな雑貨や、かわいらしい色合いのベッドカバーがかけられたベッドがあった。
「ここは希さんの部屋なんですよ」
そう言って、女性は部屋を出て行った。
覚えてもいない姉の部屋と知って、叶は少し居心地の悪さを感じる。まるで、今、このときから、叶を希の後釜に据え置こうとしているようだ。
さっさと喪服に着替えハンドバッグを持って、廊下に出る。あちこちからバタバタと忙しない足音が聞こえてくる。手伝ったほうがいいか、何もせず部屋で待っておくべきか迷っていると、先ほどの女性がやってきて、別室に案内された。
通りすがりに、ふすまが取り除かれて開け放たれた二十畳以上はありそうな和室に、祭壇が据えられているのが見えた。仏壇とは違い、どちらかというと清廉な印象を受ける。
祭壇の前に据えられた八本脚の小机のうえには、神棚と同じようなものが配置されて、希の顔写真が額に入れられて飾られていた。怖いくらい、叶に似ている。まるで自分の葬儀のように感じて、叶は遺影から目をそらした。
「神社で葬儀はしないんですか?」
素朴な疑問を投げかけると、女性が答える。
「死は穢れですから。葬儀は聖域である神社では行われないんですよ。ほら、神棚もああやって穢れを避けるんです」
天井に近い位置に神棚が祀られており、神棚の前に半紙が垂れていて、まるで御簾のようだった。
「こちらです」
女性に促されて廊下を突き抜けて、客間らしき部屋に通された。
広い客間にはすでに二人座って、叶を待っていた。
床の間側には座椅子に凭れて座っている上品そうな老女。叶から見て右手に座る二十代半ばに見える青年が、叶に目を向ける。
老女は特にぶしつけに叶を見やった。
「お茶を持ってきますね」
女性は叶を残し、今来た廊下を引き返していった。
叶はどうしたらいいかわからなかったので、とりあえず頭を下げる。
「このたびは、御霊のご平安をお祈り申し上げます」
「そこにお座りなさい」
老女が凜とした声だが、息苦しそうに叶に座るように促した。
ふすま側の座布団を指し示され、叶は座に着いた。
「私は、希の祖母、おまえの祖母でもある、美千代です」
ほとんど初めて会ったと言える美千代が感情なく名乗った。
「この子は水瀬一夜、希の婚約者でした。おまえの父親の天水巳知彦は葬儀の準備でここにはいません」
自己紹介された一夜が頭を軽く下げる。希はまだ十九歳だったのに、すでに婚約者がいたのだ、それに過去形をわざわざ使う必要はあるのだろうか、とまたも居心地の悪いものを感じる。それと、なぜ希の婚約者がこの場にいるのだろう、と不思議だった。
美千代が、浅く息をつき、
「希の部屋を使いなさい。もう案内されたでしょう?」
弱々しく命令した。
戻ってきてはいない、帰るつもりだ、と叶は内心思ったが、まだそれを言う雰囲気ではない気がして黙っておいた。
ちょうどお茶が持ってこられて、会話は途切れた。
美千代の呼吸が「はっはっ」と小刻みになってきた。顔色も悪い。
「美千代さん、部屋に戻りましょう。手伝ってやってくれませんか」
と、一夜がお茶を持ってきた女性に言った。
「いいえ、まだ伝えることがあります。手伝う必要はありません。さがりなさい」
女性は美千代の様子を気にしながら客間から出て行った。
一夜が差し出した手を押しとどめ、美千代が続ける。
「今日から一夜は叶の婚約者です。一夜、いいですね?」
叶は間髪入れずに、言い返す。
「あの、そんなこと聞いてません。私は姉のお葬式に来ただけです。お葬式が終わったらすぐ帰ります。なんで、勝手に婚約とか決めるんですか!」
「希が死んだのです。今から叶は菟上の当主なのですよ。当主は美豆神社の宮司と結婚するのは昔からの取り決めなのです。嫌も何もありません」
「当主になるとか結婚とか、全然納得できません。お葬式が終わったら帰りますから」
感情のままに今すぐ帰ってしまったら、母親に迷惑がかかるかも、と叶は気持ちを抑えた。
それまで険しい顔つきで叶を見据えていた美千代が、苦しそうに胸を押さえている。
「美千代さん……、部屋に戻りましょう」
一夜が廊下に向かってさっきの女性を呼んだ。やってきた女性が美千代を支えて、部屋を出ていった。
事情がわからない叶は、呆然とその様子を見ているしかなかった。
「あの……、美千代さんは」
叶が一夜に訊ねると、
「美千代さんは病気なんだ。今日は無理をして君を出迎えたんだ」
そうだったのか……、と叶は自分が美千代に対して語気を荒げたことを後悔する。
「すみません」
「君は知らなかったんだし、それに急にあんなことを言われたら、だれでも驚くよね」
一夜が淡々と答えた。
希が亡くなったとわかって、すぐに叶の婚約者だと言われたのに、なぜこんなに冷静でいられるんだろうか、と叶は不思議に思った。
「希さんが戻ってくるのは三時過ぎるらしいから、もう少し話をしていられる。その後は忙しくなるからゆっくり話す時間がないんだ。聞きたいことがあれば言ってほしい」
改めてそう言われると、すぐに質問が浮かばない。まずは気分を落ち着かせなければ。
「その前に……、あの、すみません。お手洗いは……?」
トイレに行きたいわけではなかったが、一人になりたくて訊ねた。
叶の言葉に一夜が立ち上がり、ふすまを開ける。
「廊下を玄関まで行って、左に曲がった突き当たりがお手洗いだよ。一人で行ける?」
「大丈夫です」
叶は慌てて立ち、部屋から出た。
葬儀の準備は終わったようで、準備にバタバタしていた分家の親族たちが、希が戻ってくるのを茶で一服しながら待っている。