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【連載小説】No,10 合わせ鏡

 その日は朝からどんよりした空模様で、午後には雨予報も出ていたので洗濯ができなかった。室内干しでも一応は乾くけれど、やっぱりできればお日様で乾かしたいから。
「本当はシーツを洗いたかったんだけどなぁ」
 曇天を睨んだところで仕方がない。
 洗濯は明日に回そう。
「今日は特に出かける予定もないし……このあとどうしよう」
 琴音は洗い終わった朝食の皿を片付けながら唸った。
 すると、お気に入りのクッションでゆるりとくつろいでいたクロが「買い物は?」と訊いてきた。
「昨日行ったばっかりだもん。毎日は必要ないよ」
 夢乃屋の営業時間は昼12時から夜9時まで。
 物品販売店舗のわりに、やや夜型のシフトだ。
 そのため平日は、夜よりも午前中の方が自由時間を確保できる。ただし正午の開店に間に合うように昼食を済ませようと思うと、11時頃には戻ってこなくちゃいけないから、あまり遠出はできない。なので普段は朝食を済ませると、軽く掃除や片付けをしてから洗濯をするか、買い物に出かけるかのどちらかだ。
 それでも時間が余ったら、作り置きのおかずを用意したり、お菓子を焼いたりしているうちに昼食の時間が来てしまう。
(なんか引きこもりっぽいというか、お年寄りの生活みたい。店に出るっていっても自宅兼店舗だし。顔を合わせてる相手は『人』じゃなかったりするし)
 とはいえ、この仕事は嫌いじゃない。
 おっかないことも多々あるけれど、結構面白いと思っている。いろんな意味で。
(まぁ、現実とファンタジー世界を行ったり来たりしてるようなものだもんね)
 ただ、それとは別に、貴重な午前中の自由時間を持て余すことなくどうやって過ごすか。それが夢乃屋の店主になってからのわたしの課題のひとつだ。
 テレビや配信メディアを見ながらだらだらしていたら3時間なんて、あっという間に過ぎるだろうけど、さすがにそれはもったいなさすぎる。曲がりなりにも妙齢の女性の範疇に属するというのに、出会いどころか、生活に一片の華やぎも潤いもないのは如何なものだろうか。
 もっとも、会社員時代にそれがあったかと問われれば、苦笑するしかないんだけど。
 …………侘びしい話だ。
「どうしたもんですかねぇ」
 せめて趣味のひとつもあれば、と思う。
 結局その日は混ぜて焼くだけの簡単マドレーヌをこしらえながら、生地を寝かせたりオーブンを温める隙間時間に掃除をしただけで、他にやることもなくなってしまったので、早めにお昼を済ませて一階に降りた。


 夢乃屋は閉店時と同様、開店準備も超ラクチンなので助かっている。
 モップで棚の埃を払ったり、軽く床を掃いたりする程度だ。(ちなみに掃除用の魔道具という物もあるんだけど、わたしは魔力がないのでそれを使用できない。よって掃除はすべて手動なのだ。他が楽ちんなので、モップ掛けぐらいいくらでもやりますけど)
 代金のやり取りに関しても釣銭を用意する必要がない(受け取った金銭は全部どこかへダイレクト送金されて手元に残らないし、釣銭がある場合は自動で金庫に出てくる)ので、わざわざ銀行まで出向く必要もない。面倒な手間はいっさいかからない、実にありがたい店だ。
 その日新たに入荷する品をカウンター奥に設置されている戸棚(これ転移装置ってやつなのかな)から取り出して、確認しながら店頭に出すのが一番主な作業かもしれない。
「えーっと、今日の入荷は……」
 というわけで、今日も道具類と一緒に入っていた伝票を読み上げながら、商品の数と品名をチェックしていく。
「お香とお札のセットが三つ、薬草の追加が五束。魔導書が三冊。へぇ、結構古そうなやつじゃん。希少本かな。……あとは、中身が冷めないお皿とマグカップ。いいなぁ、便利そう。あ、こっちは取り寄せを頼まれてたミスリルの盾ね。それから……夢と真実の合わせ鏡?」
 最後に出てきた品は、一見ごく普通の合わせ鏡だった。
 黒塗りの表面には美しい錦絵のような図柄が描かれていて、部屋に飾っておいても良さげな品だ。
(どれどれ)
 試しに手に持ってみる。
 蓋のように重なっている方にも鏡が付いているので、片方を手前でかざし、もう片方の手を後ろに回してかざせば、正面からの姿と背後から見た自分の姿を同時に確認できる。編み込んだ髪型が気になるとき、服の襟などを見て直したいときなどにとても便利だ。
「……うん、普通」
 大仰な名が付いていることだし、魔道具だから本来もっと別の使い道があるんだろうけど、魔力がないわたしにとってはごくごく普通の鏡でしかない。
(こういうとき魔力がないのはちょっと残念かなぁ)
 試すことができないので、なかなか魔道具という実感を得られないのである。本当はどうやって使うんだろうと考えながら、鏡を握ったまま左右に手を動かしていたら、階段から降りてきたクロがこちらを一瞥して言った。
「へぇ、面白い品が入ったね」
「そうなの?」
「うん。使う人によってすごく差が出る商品だよ」
 意味深なセリフじゃないですか。
「どういう意味?」
「カタログで確認してごらん」
「はーい」
 そうでした。こういうときクロは安易に答えを教えてくれないのだ。
 ちゃんと自分で確認しないと。
 わたしは届いた品物を棚に収めてから、カウンターに戻り、カタログを広げてみた。こうするとカタログに新しい商品も追記される仕組みになっている。
(自動アップデート機能、超便利だわ。さすが魔法のお店)
「鏡……鏡…………あった、本日入荷の新商品。これだ」
 カタログに載っているのは品名と使用方法、その効果。そして最も大事なのは使用する際のリスク、注意事項だ。他の商品同様、本日入荷した鏡にもそれが記されている。
 わたしはそのページにじっくりと視線を落とした。

≪商品名:夢と真実の合わせ鏡≫
 使用方法及び効果:左右の鏡を同時に持ち、両方の鏡面を自分に向けると、右の手鏡には噓偽りのない自分自身の姿が、左の手鏡には思い描く理想の自分が映し出される鏡。ただしそれは現時点で抱いているイメージであり、年月が経ち、本人の理想が変化すれば映し出される映像もまた変化する。
 注意事項:使用者の性格によっては中毒性が顕著であると報告されている。長時間の使用、または短時間であっても短期間内での度重なる使用は推奨できない。使用後、最低三日間または可能であれば一週間程度は間を空けて使用すること。

「へえぇ~、理想の自分の姿か……」
 パッと思い浮かばないけれど、いったいどんな姿が映し出されるのだろう。
(興味あるけど、こればっかりはなぁ)
 無いものは無い。仕方がないのだ。
「にしても……薬みたいな注意事項だね。用法用量を守ってご使用ください、みたいな」
「実際、注意しないといけないタイプもいるからね」
 クロの言葉には妙な説得力があった。
「単なるイメージの投影なのに?」
 理想の自分にうっとりしちゃって現実を見なくなるってことなんだろうか?
 わたしにはすぐにピンとこなかったけれど、後にクロの言葉の意味を理解することになる。


「ねぇ見て、お姉さま。この鏡とってもきれい」
「またあなたはそんな物ばっかり」
 その日の午後にやってきた若い女性の二人連れは、中世貴族のご令嬢のような華やかなドレスを身に纏っていた。どうやら姉妹のようだ。
 姉は入店してからずっと魔導書の棚の前にいるが、妹は店内をあちこち歩き回り、今日入荷したばかりの合わせ鏡を手に取った。
「店員さん、こちら試してみてもいいかしら」
「どうぞ」
(ぜひぜひ! わたしも使うところを見てみたい)
 ちょっとワクワクしながらカウンターから出て、近くへと歩み寄っていく。
 女性が手鏡を開き、それぞれの持ち手を握って自身を映すと、まるで手品師が机の上でカードをサッと一列に広げてみせるように、鏡面が連なりながら横へと広がっていき、やがてそれはふわりとした光の環となって彼女をぐるりと取り囲んだ。
(おおおっ、魔法って感じするわ)
「あら、やっぱり面白いわ。映っているのは確かにわたくしだけれど、左右どちらも少し違うみたい」
 彼女の言葉に惹かれて横から覗き込むと、確かに右は顔立ちもスタイルも今と同じで見たままだけれど、年齢がもっと上のようだ。今よりも落ち着いた大人の女性という印象を受ける。
(まるでこっちが理想の側みたいだけど……)
 右側が真実の姿ということは、無邪気を装っていても実際の内面は大人びているということだろうか。
 逆に左の鏡には現在と変わらぬ年齢の女性が映っている。今はゆるく流れている巻き髪をきっちりと纏め上げ、頭上に美しいティアラをいただいた凛とした姿だ。絵画に描かれる貴婦人そのものといった様子は、確かに良家の娘の理想かもしれない。
「左側はご自身の理想の姿だそうですよ。今でも充分お美しいですけど」
「ふふっ、ありがとう。確かにこの姿はわたくしの理想そのものね。若い頃のお母さまにそっくりだもの」
 彼女は満足そうに鏡を下ろし、重ね合わせた。
 そんな妹を、書架の前に佇んだままの姉が呆れた声で呼ぶ。
「マリー、遊んでないであなたも早く手伝って。わたくしたちは研鑽を積むための魔導書を探しに来たのよ。そうでなければこんな店……くだらない道具など見るのはおやめなさい。どうせ使わないんだから」
「たまにはいいじゃない。それにほら、この意匠めずらしいと思わない? 素敵だわ」
「まったく。あなたって、いつもそう」
 二人ともドレスに負けず劣らず美しい容姿だけれど、どうも性格は正反対のタイプらしい。
「お姉さまこそ、たまには学問以外のことにも目を向けた方がよくってよ。おしゃれだってもっとすればいいのに」
「……必要ないわ」
「そうかしら。わたくしはそうは思わないけど」
 注意深く見てみると、確かに明るく無邪気な笑顔で話す妹はドレスの色に合わせた髪飾りやリボンを付けているけれど、姉の方はあまり飾り気がない。髪も巻いていないし、紐でひとつに纏めただけ。それでも服にレースやフリルが付いているから、わたしの目には充分派手に映るけど、同じような人たちと並んだら地味で素っ気なく見えてしまうかもしれない。
 顔立ちはほぼ同じで、年齢も近そうだから、双子かと思うほどよく似ているのに。
 まるで正反対の二人だ。
「そういえばね、第三騎士団の団長をなさっているアディンセル家のご長男が花嫁候補を探していらっしゃるそうよ。先日のお茶会はその噂でもちきりでしたわ。お家柄も申し分ない上に、たいそうな美男ですものね」
「…………そう」
 話しかけられても姉は書物から顔を上げない。
「お姉さま、子供のころあの方と親しかったのではなくて?」
「マリー!」
 耐えきれないといった表情でパタンと音を立てて本を閉じた姉が、苛立ちを滲ませた声を絞り出した。
「いい加減にしてちょうだい。わたくしは、本を選びたいの」
「ごめんなさい」
 妹は悪びれず、ひょいと肩をすくめて詫びる。
「じゃあ、この手鏡はわたくしがいただいていくわね。お姉さまにも貸してさしあげますから、いつでも好きに使ってくださいな」
 そう言うと、彼女はカウンターで支払いを済ませてから、姉の元へと戻っていった。
 姉はしばらくの間ぶつぶつと小声で文句を並べていたが、それ以上妹に構うことなく、五冊の魔導書を選んで購入していった。
 合わせ鏡が返品されたのは、それから十日ほど経った日のことである。


「返品ですか」
「ええ……申し訳ありません」
 マリーという名で呼ばれていた妹が、今度は一人で店を訪れ、先日購入した鏡を返品したいと申し出たのだ。
「何か不具合でもございましたでしょうか」
「いえ、そういうわけでは」
「でしたら大変申し訳ございませんが、返品ではなく買い取りという形になります。ですので、お渡しする金額はご購入いただいたときより多少下がってしまいますが、よろしいでしょうか?」
「構いませんわ」
 マリーは神妙な面持ちで頷いた。
 わたしは引き出しから一枚の用紙を取り出し、カウンターに置いた。
「では、こちらにサインをお願いします。それと、もし差支えないようでしたら返品の理由をお伺いしたいのですが」
 もしも商品に何らかの問題があるようなら、カタログにメモしておかけなければと思って尋ねたのだが。
「この品に影響を受けすぎたのです、姉が」
 返ってきた答えは意外な一言だった。
「え? お姉さんの方が、ですか?」
「ええ」
 あのときはまったく興味を示さなかったのに。まさかハマったのが姉の方とは。
「姉のコーデリアは生真面目で努力家で、とても勉強熱心な人なのです」
 確かに店内での様子から、わたしもそんな印象を受けた。
「年ごろになっても美容の話などには興味を示さず、浮いた噂ひとつなく、サロンに招かれても参加しない。そのせいで堅物と思われているのか、十八になっても殿方からの求婚もなく、父も母も大変案じておりましたの」
 興味を示すことと言えば魔法の研究ばかりで、と嘆息するその口ぶりはまるでマリーの方が年上のようだ。やはりこの人は見た目よりもやや大人びたタイプなのかもしれない。
(うーん……二十六で彼氏なし、流行りの服やメイクに疎いわたしには耳が痛いな)
 わたし自身は学者肌というわけではないし生真面目でもないけれど、社交的かと問われれば否と言わざるを得ないし、現在の暮らしも半ば引きこもりに近い状態なので、あまり他人事とは思えない。
「ところが、あの鏡を覗いてから、すっかり様子がおかしくなってしまって」
 マリーは悲しげに目を伏せた。
「あの、ご購入の際にご説明させていただきましたが、あの商品は長時間眺めたり、日を置かずに何度もご使用になるのは控えていただきたい品なのですが」
「ええ、ええ。それは伺いました通り、きちんと姉にも伝えました。ですが、聞かないのです」
 まさに魅入られてしまった、ということか。
「では左側の虚像を日がな一日眺めていたりするわけですね」
「いえ、そうではありません」
 どういうことだろうと首を傾げていると、クロが「なるほどね」と話に割って入ってきた。
「ああいう品にハマるのは、現実を見ようとせず虚像に耽溺するタイプが多いんだけど、あなたの姉上はむしろその真逆だったというわけですね」
「はい」
 ああ、またクロとお客さんの間だけで会話が完結してしまった。たまにこういうことが起こる。わたしだけが理解の外で、置いてけぼりを食らうというやつだ。
「えーと、つまり……?」
 教えてオーラを醸し出しつつ、さらなる説明を求めると、クロがわたしに向き直って話し出した。
「もしあの鏡を自分でも使えるとしたら、琴音は右と左、どちらから見る?」
(順番? それって大事なこと?)
「んー、やっぱり右を見て『こっちは普通』って確認してから、わくわくしながら左を見るかな」
「じゃあ、もしも逆の順番で見たら、どう思う?」
「んん? 逆だったら……理想の自分に『おおっ』となった後に、現実に引き戻される感があるから、もう一回だけチラリと左を眺めちゃうかも。そっちの映像を頭の中に残したいっていうか」
 例えばスッキリ痩せたいと思っていてもなかなか運動やダイエットは続かないけど、最高にきれいな自分の映像が目に焼き付いていたら、多少は頑張り度合いも違ってくるんじゃないかと思う。完璧は無理でも。
「理想の自分を具体的にイメージできたら、ちょっとは前向になれそうだし」
 答えながら、ふと何かが引っかかった。
 ――――本当にそうだろうか、と。
 その違和感をクロが解きほぐしながら言語に換えてくれる。
「うん、そうだね。左の鏡が映し出すのはあくまでも夢、憧れ、理想の自分であって未来の姿ってわけじゃない。それでも左右両方の鏡を直視できる人は、いずれ左に近づくよう少しずつでも努力できる。そういう人があの鏡を持つと、いい効果が得られるんだ」
 きっと妹のマリーはそのタイプだろう。自己肯定感高そうだし、陰陽で言うと明らかに陽の側だ。
「対して右の鏡は真実の自分を映す。本人すら気づいていない真の姿を暴いてしまうことだってある」
 無邪気そうなマリーが実は意外と大人っぽい性格であることを映したように、ってことかな。
「自分自身が思っているよりみすぼらしい姿で映ってしまう人もいるし、嘘や虚栄心で飾り立てている人は実際の見た目よりも小柄だったり、幼かったり、貧しいボロ服を纏っていたりする場合もあるんだ」
「あ……そういえば右側の鏡に映った姉はずいぶんと幼い姿でした」
 マリーの言葉に、わたしはなるほどと内心唸った。
 この姉妹は見た目も正反対だったけど、内面もまたその逆で正反対だったのか。
「たとえ理想と今の自分が大きく隔たっていたとしても、その理想になかなか近づけないだろうと気づいていても、自分を責めない人なら大丈夫。問題はない。理想は理想、現実は現実と割り切れる。そういう人はあの鏡をただの道具として楽しめる」
「あ、わたしはそっち側かなぁ」
 少なくとも今は。
「真実の右を認めず、左側ばかりを眺めて満足する人は己の思い描く虚像に逃避するタイプ。それこそが現実だと思い込んでしまう人もいる」
 うん。いるいる、虚構の中の自分を信じちゃう人。
「でも一番まずいのは左側を自分の基準にしてしまう人だね」
「理想を追求しすぎるってこと?」
「そう。本当の自分はこうあるべきだ、と強く思ってしまう人。こちら側の姿こそ本来の自分であるべきなのに、なぜそうなっていないのか。どこが間違っている、何が悪い。なぜ自分はダメなのかって考えて、自分自身を否定して追い込んでいくタイプ」
「ああ……」
 なるほど。もともと自己肯定感が低かったり、プライドと理想が高くて完璧主義だったりして、現実と理想のギャップを素直に受け止められない人がドツボに陥るやつか。
「その場合、とことん自分を責めて弱っていくか、他者に責任を押しつけて攻撃するかのどちらかになる」
「……ってことは、お姉さんは」
 問うようにマリーに視線を向ける。
 すると彼女は、目尻にうっすら涙を浮かべて「後者です」と頷いた。
「あの日以来、姉はほとんど眠らず、お食事もまともに取らずに研究を続け、常にイライラして物に当たり散らし、わたくしを罵倒するようになりました。何もかもあなたのせいだ、あなたがいるからだ、と怒鳴って」
「そんな理不尽な。どうして……」
「きっと彼女の鏡の左側に映った姿が妹さんに似てたんじゃないかな」
 クロの言葉に、マリーがゆるゆると首を横に振った。
「正確にはわたくしどもの母によく似た姿が映っておりました」
「でも、キミの方が母上に似ているでしょう? 容姿も、おそらく性格も」
「はい。似ているとよく言われます」
 姉は父親に似て言葉数が少なく、引っ込み思案なところがあるので、と彼女は小声で付け足した。
 以前この店を訪れたときの無邪気で明るい笑顔はすっかり影を潜めている。あのときの姉と妹は顔立ちこそ双子のようにそっくりでありながら、陰と陽、右と左、裏と表、正反対の姿を映し出す二つの鏡のように真逆の印象だったのに。
 今はその二枚の鏡が合わさったように近づいている。
「だからといって、どうして姉がわたくしを責めるのか、なぜあんなにも怒りっぽくなってしまったのか分からないのですが、鏡を眺めるたびに癇癪を起して乱暴するものですから、とにかくこの鏡を買ったからだという結論になり、手放すことにいたしましたの」
「……そうですか」
 この人には姉の抱える闇が見えない。近づいたとしても、完全に重なり交わるわけじゃない。他人を認め、共感するというのも、また難しいものだ。
(それでもお姉さんを大事に思ってるのは嘘じゃないんだよね)
 わたしは頷き、鏡を受け取った。
「では、こちらは買い取らせていただきます」
「ありがとうございます」
 規定に従った買い取り価格を支払うと、マリーは優雅な仕草でお辞儀をして去っていった。


 その日の夜――――
「そういえばさ、もともと合わせ鏡って不吉なものだと思ってる人も結構いるみたいだね」
 客の引いた時間を狙って二階に上がり、作り置きのカレーを温めたわたしは、食べながらクロに話しかけた。大学のとき、持っていた友人に不吉だから使うのを止めなよと忠告していた子がいたことをふと思い出したのだ。当時のわたしはそういったことにあまり関心がなかったので、ずいぶん信心深いんだなぁと驚いた記憶がある。
「長く映っていると運気を吸い取られるとか、気の流れを歪ませるとか、そういうオカルト的なイメージがあるって言ってた子がいたんだよね、学生の頃」
 平安時代じゃあるまいしって、正直少し呆れていた。
「海外だと、悪魔との通信手段だって信じてる人もいるんだって。ホラー映画のネタにしてもちょっと古いと思うんだけど」
「確かに映画のネタとしてはどうかと思うね。実際そういう魔道具もあるけど」
「あるんかい」
 さらっと流されたクロのセリフに全力で突っ込んだけど、そういえばここはそういう品を扱う店だったわ。
「意外? 今は在庫にないけど売ったことあるよ。強い呪物だって店に置いてるでしょ」
「……ですね」
 なにせ、お得意様に魔王軍の将軍がいるぐらいだもん。そりゃ悪魔と繋がる通信機器を売っててもおかしくないか。カレーライスを食べる猫も目の前にいることだし。
 しかし、ということは、だ。
「やっぱり合わせ鏡って不吉なの?」
「古くから呪術に用いられてきた道具だからね。それなりに効果はあるよ。でもまぁ、ただの鏡ならさほど気に病む必要はないでしょ。普通は、ね」
 例外はどこにでもあるってことか。
「ハサミも鏡も道具は道具。結局は使う人と、その使い方次第じゃない?」
「だよねぇ」
 理想と現実の乖離を認め、己を受容するというのは言葉にすると至極簡単そうだけれど、意外と上手くできない人間も多い。
 実を言うと、昔わたしはコーデリアという名のあの姉にもっと近いタイプの人間だった。
 何かにつけて行動を起こすときには「やりたい」よりも「やらなきゃ」が中心にくるタチで、基本的に白黒きちんとしていないと気が済まなかったりしたから、完璧主義だねなんてよく言われた。
 いろいろあって人生そんなに杓子定規にはいかないものだと学んだり、寛容さも必要だと知る機会を得たり。少しずつ少しずつ変わってきて、今がある。
(まぁ今だって人生を謳歌しているとは言い難いし。無趣味で彼氏なしの、ほぼ引きこもり状態だし。こんな自分でいいのかって考えて落ち込むことだってあるけど……こういう人生も悪くないかもって思えるようになったんだから、それで充分かな)
 だから彼女もこれからちょっとずつでも右側の、ありのままの自分を受け入れることができるようになるといいなぁと思うのだ。理想とは程遠くても。
 そうすればきっと、少しは呼吸するのも楽になるはずだから。

「あの鏡、もう一度店に出してもいいの」
「構わないよ」
「売れると思う?」
「さぁ、どうかな」
「相性いい人に買ってもらえるといいねぇ」
 わたしの言葉にクロが小さく頷いた。

 あの姉妹は今ごろどう過ごしているだろう。
 妹はほっと安堵しているだろうか。
 姉は不安に駆られて泣いていないだろうか。
(きっと元気になるにはしばらくかかるよね)

 それでも、いずれまた二人で店に来てくれるといいなと密かに願いながら、わたしはカレー皿を片付けるために立ち上がった。


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