今を生きている光
アルバイト先のモダンバレエ(ダンス)教室には、まだ幼稚園に入る前の子ども達のクラスがある。
稽古着を着てそこにいるだけで、もう踊らなくても可愛すぎて観ているだけでも楽しいクラスだ。
幼稚園に上がったクラスの子ども達に比べてその子達の自由度は格段に高く光っている。楽しければ踊るし、他に気になるものがあれば、そこにむかって駆けて行く。トイレだって構わず行くし、急に泣く子もいると思えば、きゃ~~と急に超音波級の声が飛びかう。笑。
何も気にせず自分の好き!今何がしたいかが全面に出して今を生きている。今しかない。
そんな子ども達を見るたびに、最近は眩しく、あっぱれと思う。
そして今の自分のお手本だなと思う。
(若い時保育のような事をしていた時は、「も~聞いてくれ、話を!並んでくれここに!」などと思っていたし、実際子育てをしていたらふぁ~(^_^;)と思う場面はそこはかとなく多いだろうしこんな心境にはならないかもしれない)
バイトの立場としては、定位置に並ばせたり、走り回る子を止めたりするのだが、もう全然好きにやっちゃってとか内心思っている。
自分の気持ちいいこと、好きなことに全力投球し「今」を生きているあの子達をみると、その人の本質が塊のように溢れでているので微笑んでしまうのだ。
気を遣うとか人目を気にするとか、忖度なんて言葉とは無縁だ。
仕事上やボランティアで多動やダウン症、軽度~重度の知的ハンディキャップを持った子ども達といくつかの場面で関わった中で思うのもやっぱり彼ら彼女達も、今を生きていたということだ。
だから、彼ら彼女の支援が全然旨くいかなかったり、本人や親御さんや施設の人やケース記録からの壮絶な話を聞く中で絶句したり、鉛のような気持ちになってしまっても、私は今を生きている彼ら彼女らが眩しいと思っていた。私達よりずっと自分を生きることに忠実な気がした。
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幼稚園から、小学校、中学校、高校、大学や専門学校、会社と何かしらに属して行く中で、私達は人と調和していくこと、ルールを守ること、その中で自分を出していくことや出さないことを体験していく。
集団や友と味わう喜びや楽しさや学びもあれば、悲しみや孤独やさびしさもある。
大人や社会や未来に対しての希望を感じることもあれば、畏怖や違和感や失望を感じることもある。
会社に入り社会的な立場をえれば、またいろいろある。
そんな様々な体験と膨大な気持ちを持ちながら成長し、適応、順応させていくなかで、本当の自分ががわからなくなったり、好きで始めた仕事もあれれ?となったりすることもある。
家族や仕事や社会的責任の中で、今したいことよりも今やるべきことを、考えなければならないことに覆われ、順応に精一杯で、自分の本当に楽しいことを追求する時間は少なくなり、今生きてる~!という自分の瞬間がおざなりになる。
それでも、私はそれが社会人で大人になることだと思っていたし、今その瞬間の自分の気持ちよりも、社会で旨く生きていくことが最重要だった。
組織の中で与えられたポジションが好きだったしやりがいを感じていた。
それを手放すことは恐かったし、ずっとそこで戦っていきたかったはずなのだが、いくつかの出会いがあり、今全然違う場所にたっている。
今私の最大の先生は幼稚園前のあの子ども達だったりする。
ほんのちょっとの出会いで未来は変わってしまう。
明日自分が誰とどこにたって何を感じているかは未知数だ。
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今日は快晴で、外は春が少しずつ訪れている気配がある。眼をつぶり息を吸い、今を感じ、幾人かの戦士を想いながら、洗濯物(苦手)を干す。