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(小説)八月の少年(二)

(二)マンハッタン駅
 その日仕事を終え大学の研究室を出ると、わたしはプリンストン駅へと向かった。プリンストン駅からプリンストン・ジャンクション駅を経由してマンハッタン駅に行くために。
 マンハッタン急行テニアン行き。
 わたしはそれを確かめたかった。
 プリンストン駅で列車を待っている間、わたしはホームのベンチに腰を降ろした。夏の昼下がりの風が汗ばむわたしの頬を撫でていった。わたしはうとうと眠気を覚えた。ホームに列車が入ってくる音が聴こえる。
 乗らなければ。わたしは襲い来る眠気の中でそう思った。
 マンハッタン急行テニアン行き。
 そうだ、わたしはそれを確かめるため、今ホームに入って来た列車に乗らなければ・・・。


 プリンストン駅からプリンストン・ジャンクション駅を経由してわたしはマンハッタン駅へと向かった。マンハッタン駅に着いたのは夕方だった。
 マンハッタン急行テニアン行き。
 果たしてそんな列車あるのだろうか?それともただの夢?
 マンハッタン急行テニアン行き。
 しかしそんな列車聴いたこともない。やっぱり夢だ。夢に決まっている。夢の中の戯言だ。
 マンハッタン急行テニアン行き。
 ばかばかしい。わたしはこんな所まで来て一体何をしているのだ?さっさと家へ帰ろう。
 わたしは引き返す決心をし帰りの切符を買おうと駅の改札を出た。駅の前は夕方のラッシュの人波で溢れていた。プリンストン駅までの切符を買おうとしたその時、けれど喧騒の中から何かが聴こえてきた。語りかけるように。
 何だ?もしかして?
 あの歌だ。あの夜明けの夢の中で流れていた歌。歌の調べに導かれるように気付いたらわたしは駅員を呼び止めていた。駅員が振り向いたその瞬間、魔法が解けるように歌の調べは止んだ。
「あぁもし」
 歌に取り残されたわたしは恐る恐る駅員に話しかけた。
「変なことを聴いて申し訳ないのだが」
 わたしの声は緊張で震えていた。
「はぁ?」
「実はその、マンハッタン急行テニアン行きという列車」
 と言いながら駅員の様子を見た。
「それがどうかしましたか?」
 ん?
「切符をお求めですか?」
「え?」
「切符ですよ、あなたが言われた列車の」
 びっくりして駅員の顔を見た。冗談に付き合っているわけでもあるまい。
「ではあるのかね?そんな列車が」
「勿論ですよ、お客さん」
 駅員の言葉にわたしは言葉を失った。駅前の騒音が消えた気がした。ラッシュアワーの人波が駅員とわたしの周りをいつ終わるともなく流れてゆく。
「もしかしてあなたですか?」
 駅員の言葉に我に返った。
「え?」
「あなたですね、お客さん」
 駅員の顔が和らいでゆく。
「何のことだね?」
「切符ですよ。お預かりしていた切符」
「切符?」
 何のことだ?
「あぁ良かった。朝からずっとお待ちしておりました」
 それなら人違いだ。そんな切符など知らんぞ。けれど駅員の次の言葉にわたしはまたしても言葉を失った。
「男の子から頼まれた切符ですよ」
 男の子?男の子、少年、坊や、夢の中の?まさか。その時遠く何処からかあの夜明けの夢の歌がまた聴こえてきた。何処からだ?辺りを見回したがわからない。一体何処から聴こえてくるのだ?他の人、この駅員にも聴こえているのか?
「きみ何か聴こえないかね?」
「何かと言いますと?」
「歌だよ」
「歌?わたしには何も聴こえませんが」
 何、ではもしかしてわたしにしか聴こえないのか?一体何がどうなっているのだ?
「男の子と言ったね?」
 わたしは恐る恐る駅員に尋ねた。
「詳しい事情を説明してくれないか?」
 わたしの問いに対する駅員の答えはこうだ。
「それは夜が明けてすぐのことでした。何処からともなくひとりの男の子がやって来て、夕方ひとりの紳士がこれを取りに来るから渡してほしいと、一枚の切符を置いていったのです。何が悲しいのかその子は泣いていました。あまりに辛そうなので訳を尋ねようとしたのですが」
 泣いていた。男の子が。
 しばし目を閉じざわめく駅の人波の中微かに聴こえ来るあの歌に耳を傾けた。何ということだ、わたしはまだ夢を見ているのか?いやそんなはずはない。目を開き駅員に確かめた。
「切符とはマンハッタン急行テニアン行き?」
「勿論」
「おお」
 その時別の客がやって来て駅員を呼んだ。駅員は急かすようにわたしを見た。
「あなたで間違いありませんね?それではお渡ししますよ」
 けれどすぐには受け取れなかった。
「待ってくれ」
 これは何かの間違いだ。こんなことあるはずがない。やっぱりわたしはまだ夢を見ているのか?
 と突然その時わたしの脳裏にあの夜明けの夢の少年が現れた。夢から醒める直前にわたしに手を差し伸べたあの姿で。
 坊や、やっぱりこれはきみなのか?
 脳裏に浮かぶ少年に向かって問いかけると、少年はうれしそうに笑い返した。それからスーと少年の面影は消え歌の調べも止んだ。目の前には切符を差し出す駅員が立っていた。まるでわたしへと手を差し伸べた少年のように。
「それでは仕方がない」
 とうとうわたしは観念し、その切符を受け取った。
 切符にはこう書かれていた。
 "Manhattan express August 6th,1945"
 6th、6th?待て、今日はまだ5日のはずだぞ。印刷ミスか?行き先はそしてこう記されていた。
 "Oze"
 Oze?
「何だね?この切符は」
 尋ねようとしたが駅員はもういなかった。駅員はわたしから離れ別の客の応対をしていた。
「おい、きみ」
 切符を握り締め立ち尽くすわたしの耳に、駅の放送が聴こえてきた。
『マンハッタン急行テニアン行き、間も無く最終列車の発車時刻でございます』
 何、最終だと?まだ夕方ではないか。まだ乗るかどうかさえ決めていないのに。
『ご乗車の方はプラットホームへお急ぎ下さい』
 おいおい、どうすればいいのだ?
 迷いながらもわたしは急き立てられるように改札へと向かった。

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