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(小説)風の放送局(十三)

(十三)風の道(大貫妙子 一九八二年)
 一九八〇年八月二十三日

 一夜明けても、少年の決意は変わらなかった。
 久し振りに自室で夜明けを迎えた少年は、その代わり午後から別の場所に直行した。東京は新宿歌舞伎町にある映画館、名画座のミラノ。
 上映していたのは、追憶、だった。
 以前風の放送局の中で出てきた、風の放送局のおっさんと娘さんが見たという映画。それを、少年はどうしても見たいという衝動に駆られ、雑誌ぴあで調べ、ここに辿り着いたのだった。
 バーブラ・ストライサンドの主題歌を聴いているうち、憎っくき風の放送局の言葉を思い出し、少年は焦った。
 覚えているっていうことと、忘れてしまうっていうことは、実はきっと、同じことなんだよ。例えばね、それは例えば、水平線上の空と海の違い、位しかなくてさ。忘れるっていうことは、いつかまた思い出す為に、しばらく何処かに、そっと隠しておくこと……。
 水平線かあ。
 少年は無性に、海が見たくなった。海に帰りたい、と思った。
 もうひとつ見たい映画があった。
 それは、ジョディ・フォスター主演のフォクシー・レディ。
 直ぐ隣りのビルにある、新宿オスカーで上映していた。ところがこの映画は、本日初公開だった。
 おかしいなあ、どうなってんだ。
 少年は、首を傾げずにはいられなかった。
 確か風の放送局が、十八歳の夏休みに新宿で見たって、言ってたよなあ。でもそれって、何十年前の話だよ……。
 兎にも角にも新宿オスカーに入り、少年は映画を鑑賞した。ラストシーンを見詰めながら、再び少年は首を傾げた。
 あれっ、何だよ。ジョディ・フォスターの台詞、違うじゃん。確か、アニーはただプラタナスの木になりたかっただけ、みたいなこと言ってたよな、風の放送局。
 でも実際は『アニーはナシの木の下に埋められたいと言った』だぜ。何でナシの木が、プラタナスに化けちゃう訳。
 ひでえなあ、どうなってんだよ。ほんと嘘ばっか吐きやがって、あいつ。何が、丘の上のプラタナスの木になって、そばで遊ぶ子供たちを見ていたかっただけ、だよ。それって口から出任せ言ったってことじゃねえか、あんた。そんな嘘まで吐いて、娘さん喜ぶ訳ねえだろ。娘さんだって、直ぐに嘘だって気付くだろうしさ。くっそーっ。あいつ、何で嘘なんか吐いたんだよ。
 映画のエンディングテーマの中で、けれど少年ははっと気付いた。
 風の放送局、そうか、あいつ。少しでも娘さんを励まそうとして、それであんなことを言ったんだ……。
 少年はぐっと唇を噛み締めた。いつか少年の目には、涙が溢れていた。
 何だよ、これじゃ俺、映画に感動して泣いてるみたいじゃないか。
 少年にとってそれは、海雪が来なくなってから初めて流す涙、胸の奥でずっと堪えていた悲しみが、やっと形となって溢れ出した瞬間だった。
 少年は泣いたことで、少し楽になれた気がした。
 涙を拭い映画館を後にすると、新宿はすっかり宵の街だった。歌舞伎町は土曜日の人波で、ごった返していた。喧騒の中JR新宿駅へと急ぐ少年の耳に、オンザレディオのメロディがこびり付いていた。
 オンザレディオ、レディオ、ラジオ。と来れば、COUGAR。そして風の放送局。
 大丈夫かなあ、あの人。
 少年は風の放送局のことが、急に心配になって来た。
 もし海雪さんが死んだなら俺も辛いけど、娘さんが死んだあの人は、俺なんか比べもんにならない位、辛い筈だよ。
 混んだ電車に揺られながら、新宿から横浜までずっと、少年は風の放送局のことばかり考えていた。風の放送局への怒りは、もう消えていた。
 やっぱしあの海に行って、風の放送局を聴かなきゃ。
 少年は思い直した。
 だって俺にとってあの海が、あそこが、海雪さんと出会った、唯一の場所なのだから……。

 一九八〇年八月二十四日

 海辺に夜明けが訪れ、少年はCOUGARの周波数を風の放送局に合わせた。けれどスピーカーからはノイズ。
 駄目か、やっぱり。昨日はどうだったんだろう。
 少年は心配でならなかった。
 放送なんか、もう止めちゃったのかも。だって娘さんが死んだってことは、語り掛ける相手がいなくなったって、ことなんだから。
 それは、もう放送を続ける理由が何にもなくなりました。従って、もうお終いですってことを、意味するんだよ。
 でもきっと、それでいいんだ。だって……。
 少年はじっと海を見詰めた。
 だって、その方が風の放送局のおっさんだって、悲しみから早く立ち直れるから。
 そうは思ったけれど、少年としては矢張り寂しくてならなかった。
 パチッ。
 ため息を吐きながら、COUGARを消した。そうすると、海雪とのこのひと夏の思い出さえもまた、すべて波に洗い流され、消えてしまう気がした。

 一九八〇年×二〇一〇年の八月二十五日

 海辺に夜明けが訪れた。性懲りもなく少年は、今朝もここにいた。ここにいて砂に腰を下ろし、COUGARの周波数を風の放送局に合わせていた。しかし、結果は矢張りノイズ。
 あーあ、やっぱりもう駄目ですか。
 それでも少年は、COUGARのスイッチを落とせずにいた。
 潮騒を耳にしながら、少年はじっと目を閉じた。こうしていると何処からか海雪の足音がして、今にもこっちへ近付いて来る、そんな気がしてならなかった。
 そしてその時我が愛機COUGARのスピーカーから流れて来るのはいつも、風の放送局のお喋り、だったんだけどなあ。俺の十八の夏は、このまま終わっちまうのかよ。
 ふと潮風の音に混じって、幽かに足音がした気がした。
 まさか、海雪さん……。
 はっとして、少年はさっと目を開けた。しかし周囲に人影などなかった。
 なーんだ。
 落胆しつつも、少年は納得した。
 そりゃそうだよ、だって海雪さんはもう……。
 そこへ突然、COUGARのスピーカーから聴き慣れたあの声が。
『JOKA―FM、こちらは風の放送局です。おはよう、今朝は二〇一〇年八月二十五日。まだまだ蒸し暑い夏の夜明けです』
 あれっ、風の放送局じゃん。
 驚きの余り、少年はじっとCOUGARを見詰めた。
『すいません。二日間、お休みしてしまいました』
 謝んなくていいんだよ、風の放送局さん。でも大丈夫なの……。
 少年は、COUGARに向かって問い掛けた。
『では今朝もまた初めに、きみの詩を読ませてもらいます』
 風の放送局の声は、まだ沈んでいた。少年は目を瞑り、COUGARから流れ来る詩に耳を傾けた。
『わたしの心もひとつの海なら
 いつか、わたしの海を見にゆきたい
 教えて下さい
 わたしというひとつの波が砕け散った後
 この世界という海に生まれくる
 新しい波は穏やかでしょうか
 それは限りなく
 穏やかであってほしかった
 ほら、波打ち際で
 裸足になった子どもたちが遊んでいる
 夏の午後、きらめく波と潮騒の中で
 子どもたちがきらきらと笑っている

 わたしの心もひとつの海なら
 教えておくれ
 わたしもそんな海に
 いつかなりたい』
 風の放送局はそのまま、しばし沈黙した。目を開けると、眩しい朝の陽射しがきらきらと海の波間を照らしていた。きらきらと、それは丸で子どもたちの笑い声のように。風の放送局は、再び語り出した。
『早いもので、きみがいなくなってから、もう六日という時間が、流れ去ってしまったんだね』
 六日かあ、確かに速いなあ……。
 少年はCOUGARに向かって、ため息を零した。
『ほんとにあっという間だったね。でもその間に、いろんなことがあってね。残念ながらぼくは、悲しみに浸る暇さえなかったんだよ。悲しみに浸る。そう、確かにぼくの心は今、きみを失くした悲しみでいっぱいなんだ。それはどう否定しようもない事実だし、そしてどんな慰めの言葉をもってしてもこの悲しみを癒すことなど、出来はしないのだと分かっている。
 でも今でもぼくは、きみが選択し歩んだ道を間違っていたとは思わないし、最後まで自分らしく生き抜いたきみを尊敬し、誇りにさえ思っているんだよ。
 だけど残念ながらママはそうは思ってくれないし、周りのみんなもママ同様、到底理解などしてはくれない。充分な治療を受けさせなかったあなたが悪い。あなたが海雪を殺したのよ、分かってるの。わたしは絶対、あなたを死ぬまで許しませんから、ってね。
 顔を合わせる度ママはぼくを激しく責め立て、すべての人は今でもぼくを殺人者呼ばわり。お前が娘を殺したのだとずっと怒鳴られ、罵られているんだよ。
 そしてきみには、とても申し訳ない報告になってしまうんだけど……。もうこれ以上一緒には生きられない、これから先はもう完全に、別々の道を歩みましょうってことで。ママとは正式に、話が決まったよ』
 えっ。
 別々の道って、詰まり、離婚ってこと……。
 少年は驚き、また風の放送局に同情を禁じ得なかった。
 娘さんを失くし、奥さんとも別れて、これからどうするんだろ、ひとりぼっちで。
『きみにとっては残念な結果になってしまったけれど、これも大人であるふたりが話し合って決めたことだし、もうこうするしか、道はなかったんだよ。でも、こうやってきみに話せたことで、少し気が楽になれたかな。ほんと、ありがとう』
 何か力になれることはないかと、少年は頭を捻った。けれど何も思い浮かばなかった。
『では今日は、この曲をきみに贈ります。大貫妙子、風の道。それじゃ、また』
 少年の知らない歌手と、初めて聴く曲が流れた。そして曲が終わると、COUGARはそのまま波の音に変わった。
 それじゃ、また。なんて言い残して終わっちゃったけど、どうすんだろ、風の放送局。放送続けるつもりなのかな、それとも……。
 いつ絶えるとも知れない波音の中で、少年はただ風の放送局のことばかり、考えていた。


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