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(小説)交響曲第五番(四・三)

(四・三)第四楽章アダージェット・6分

 夕刻、パーティが無事お開きとなり、外はもう薄暗くなっていた。結局ほとんど口を利くこともなく自分はひとり、林屋さんを後にした。しかし直ぐに自分を呼ぶ声がした。
「昇くーん」
 その声は紀ちゃんだった。息を切らして追い付いた紀ちゃんは、自分の隣りに並んだ。歩きながら、話した。
「今日はありがとう。でもわたしの話題ばっかりで、ちっとも面白くなかったんじゃない」
 紀ちゃんはやっぱり自分を気にしていてくれたのだった。自分はかぶりを振った。
「いやあ、そんなことないよ。みんなの話、聴いてるだけで楽しかったよ」
「なら、いいけど。昇くん、もうまっ直ぐ帰るの」
「ああ。ご馳走鱈腹食ったし、他に行くとこもないし」
「今夜は冷えそうだから、雪降るかもね」
 そう話す紀ちゃんの息が、白かった。その白さを掻き集め、この腕に抱き締められたらどんなに良いだろうと、自分は願った。
「雪かあ。クリスマスだし、降ったらいいなあ」
「でも、ちょっとまだ早いかもね。留萌は、もう雪でしょ」
「ああ、もう雪ん中に埋もれてるよ」
「行ってみたい」
「えっ」
 突然立ち止まった紀ちゃんに合わせて、自分も足を止めた。
「何処に」
 聞く自分を見詰めながら、紀ちゃんは答えた。
「だから、留萌」
 えっ。自分は思わず、じっと見詰め返した。やっぱり紀ちゃんの息は、白かった。それはまっ直ぐに、凍り付いた大気中へと昇っていった。自分の手でつかまえるには、とても追い付けない速度で。
「わたし、もっと知りたいの、留萌のこと」
「えっ」
 けれど、どうして、とは聞けなかった。聞くことが恐かった。夜の帳が降りた南千住駅のホームから発車する、上り常磐線の灯りが見えた。
「ねえ、昇くん。これから上野に行かない」
「上野」
「うん。わたし、風の丘公園に行きたいの」
「風の丘公園かあ。でも、これから」
「うん。久し振りにブランコに乗りたいなあと思って。でも一人じゃ恐いから、昇くん、付き合ってくれない」
 付き合って。ドキッとしながらも、自分は平静を装った。
「どうしてもって言うなら。今日は紀ちゃんの就職祝いだし」
「やった。今日は、クリスマスだしね」
 紀ちゃんは少女のようにはしゃいでいた。
 早速常磐線で上野に出て、紀ちゃんと風の丘公園に向かった。紀ちゃんと何処かへ出掛けるなど、これが初めてのことだった。
 木枯らしが吹き荒れる公園内に人影はなく、人恋しげに錆び付いた音を響かせブランコが揺れていた。
「誰もいないね」
 紀ちゃんは直ぐにブランコに座った。自分も隣りのブランコに腰を下ろした。ふたりの吐く息が白く、灰色の空へと昇っていった。
「ああ、気持ちいい」
 紀ちゃんは勢い良くブランコを漕いだ。自分は隣りでじっと、紀ちゃんの様子を眺めていた。
「昇くんは、留萌に帰りたいって思ったことないの」
 ブランコを漕ぎながら問う紀ちゃんに、自分はかぶりを振った。
「ああ、ないな」
「本当」
「うん。だって今の俺にはもう、山谷が田舎みたいなもんだから。林屋が俺の、故郷だから」
「昇くん」
 ブランコを止め、紀ちゃんはじっと自分の顔を見詰めた。その瞳には、薄っすらと涙が滲んでいた。
「紀ちゃん」
 抱き締めたい衝動に駆られた。紀ちゃんもじっと自分の目を見ていた。紀ちゃん……。けれどその時、冷たいものが灰色の空から落ちて来た。雪かと思ったけれど、生憎それは雨の滴だった。冷たい、けれど雪にはならない雨だった。
「昇くん、今夜はありがとう。もう帰ろう、わたしたちの故郷へ」
 雨は直ぐに土砂降りとなって、上野の街や行き交う人の背を濡らした。紀ちゃんのコートを、自分の安物ジャンバーを、常磐線の下り電車の窓ガラスを、山谷の街に建ち並ぶドヤの屋根屋根を濡らして、決して雪にならない雨は降り頻った。

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