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(小説)交響曲第五番(五・三)

(五・三)第五ラウンド・1分

 それからの自分は、紀ちゃんのことばかり考えていた。紀ちゃんのことが片時も頭から離れず、仕事も手につかなかった。紀ちゃんを抱きたい、紀ちゃんとひとつになりたい。そんなことばかり考える自分を、そして自分なりに軽蔑し罵った。紀ちゃんへの想いをなんとか振り払おうとして、もがき苦しんだ。自分はあんなお嬢さんとは一緒になれないんだ。そんなまともな人間じゃないんだ。母親は売春婦だし、中学もろくに出てないし、それに人を殺そうとした犯罪者……そうだよ、実際今も逃亡の身なのだから。仮に時効が十五年だとして、権田川を刺した罪から自由になれるのは三十歳。まだ後八年もある。そんな人間が紀ちゃんみたいな普通の人、いやお嬢さんと、幸せになんかなれない。なっちゃいけないんだ。人並みの幸福なんて、求めちゃいけねえんだよ。そう自分に言い聞かせ、なんとか紀ちゃんへの想いを断ち切ろうと、自分は日夜闘った。その為に、久し振りにシャドウボクシングにも励んだ。
 その後も紀ちゃんと自分の関係に特に変化はなく、自分が月一回林屋に来た日の帰り道、しばしふたり並んで歩き、世間話をする程度だった。そして紀ちゃんは二十歳を迎えた。自分は焦った。このままズルズル行ったら、自分なんかの為に紀ちゃんが貴重な青春時代を無駄にしてしまう。このままじゃ駄目だ。早く何とかして、紀ちゃんに自分のことを諦めさせなければ……。
 そこで自分は林屋の帰り道、思い切って紀ちゃんを上野の風の丘公園に誘った。そしてふたりでブランコに揺られながら、紀ちゃんに自分の過去について、可能な限りを打ち明けた。留萌からは家出して来たこと。本名までは明かさなかったけれど、矢吹昇は偽名であること。母親が、売春婦であること。これで紀ちゃんが自分を諦めてくれたらいいなあと願いながら、自分は正直に淡々と語った。けれど。けれど紀ちゃんの反応は、自分が期待したものとは異なった。
「ありがとう、昇くん。正直に話してくれて。わたし、とっても嬉しい。でも」
「でも」
「うん。それでもわたしにとって昇くんは、昇くんでしかないから」
「えっ、どういうこと」
「だから、何と言われても、わたしの昇くんへの気持ちは、変わらないってこと」
「紀ちゃんの、俺への気持ち」
「そう。だってわたし、わたし昇くんのこと……」
 紀ちゃんはじっと自分を見詰めた。そしてこう告げた。
「ずっと、好きだったんだから」
 えっ。
 ブランコから立ち上がると、紀ちゃんはそのまま自分の肩に抱き付いて来た。紀ちゃんの勢いに押され、自分はブランコから後ろにずり落ちて地面に尻餅をついた。それでも紀ちゃんは自分から離れなかった。
「昇くん、大好き」
「紀ちゃん」
 どきどき、どきどきっ……高鳴る心臓の鼓動を抑えながら、自分はただ紀ちゃんを抱き締めているしかなかった。紀ちゃんの気持ちを受け止めるしか……。
 ドヤに帰っても、今日の紀ちゃんとのことは、和田さん、洌鎌さんには黙っていた。自分の頭の中は紀ちゃん一色だった。
 紀ちゃん。自分だって、紀ちゃんのことが好きなんだ。大好きなんだよ。紀ちゃんがああまで言ってくれるのならと、自分は紀ちゃんとのことを真剣に受け入れる気持ちへと傾いていった。そして有頂天になり、舞い上がった。自分も紀ちゃんと幸せになれるんだ、こんな自分が……。ところがそんな矢先、ドヤにひとりの来客があった。

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