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(小説)交響曲第五番(三・三)

(三・三)第三ラウンド・1分30秒

 でも何処にあんだろ、山谷って。翌朝目を覚ましたら、早速地図で調べた。すると山谷という地名はなかったけれど、泪橋という交差点が見付かった。泪橋。きっと、ここだ。そこは現在地から案外近かった。そこで自分は朝食も後回しで、直ぐに出発した。張り切って歩いたせいか、南千住駅まで一時間で着いた。そこから少し歩き、遂に泪橋の交差点に辿り着いた。しかしそこは、これといって何の変哲もないありふれた交差点に過ぎなかった。自分は拍子抜けした。お腹の虫もぐーっと鳴いた。
 もう昼近かった。何か食べ物はないかと見回した自分の目に、鯛焼きの文字が飛び込んで来た。それは、鯛焼き喫茶 林屋、と横書きで書かれた看板だった。腹に入れば何でもいいやという心境で、自分はその店の前に立った。
「いらっしゃい」
 持ち帰りなら店の中に入らなくても、店頭で頼めば良いらしい。店から顔を出したのはおばさんで、やさしそうな感じの人だった。しかし荷物でぱんぱんに膨れたマジソンバックを抱えた自分を、直ぐに野宿者と見抜いたのではないかと思う。それでもその人は笑顔を絶やさなかった。
「なんにする」
「あ、鯛焼き」
「いくつ」
「じゃ、四つ」
「あったかいの今焼くから、待ってて」
「はい」
 自分は素直に店先で待った。手持ち無沙汰で突っ立っていると、焼き上がった鯛焼きを包んで、おばさんが再び顔を出した。幸子の財布から代金を渡し、鯛焼きを受け取った。中味は熱々、手が火傷しそうだった。
「はい、お釣り」
 釣りを貰う時に触れたおばさんの手が、あったかかった。後ろ髪引かれる思いで、自分はその店を後にした。
 南千住駅に引き返して、駅前で鯛焼きを頬張り、その後も日暮れまでずっとそこから離れなかった。そして山谷の街は、夜に沈んだ。何処か野宿する場所はないかと探し回った挙句見付けたのが、玉姫公園だった。公園内には他にも野宿者がいたけれど、自分はじっとベンチに腰掛け、そこで一晩明かした。
 翌朝早々と目を覚ました。玉姫公園の他の連中も起きて、ぞろぞろ何処かへ出掛けてゆく。もしかしてと思い、自分もこっそりその後に付いていった。すると行く先は、泪橋の交差点だった。そしてそこが、寄せ場だった。
 仕事に有り付こうと、男たちが群れを作っていた。自分のような若い者は少なく、中年の男や年寄りが多かった。手配師が現れ、群れの中の数人の男たちと交渉した後、待機していた車に乗せて現場へと連れ去った。自分はその光景を電柱の陰から、じっと見詰めていた。群れの中に身を置こうという気には、まだなれなかった。そのうち手配師の姿が消え、集まっていた連中も何処かへいなくなった。
 あーあ、行っちまった。明日は自分も仲間に入れてもらおうと心に誓い、泪橋の交差点を後にした。それから南千住の駅前で一日を潰した。昼は林屋の鯛焼きを食べ、晩は駅前の蕎麦屋できつねうどんを食べた後、再び玉姫公園で一晩を明かした。
 翌日は決意した通り、寄せ場の群れに加わった。しかし手配師は誰も自分を相手にはしてくれなかった。そこで思い切って、手配師の一人に声を掛けてみた。
「すいません。俺も雇ってもらえませんか」
 けれど、良い返事は貰えなかった。
「坊主、幾つだ」
 坊主だと。かちんと来たけれど、自分は答えた。流石に十五では雇ってくれないだろうと、嘘を吐いた。
「十六、です」
 しかし相手の観察眼は鋭かった。
「十六だと、嘘吐くな。どう見ても中学生にしか見えねえぞ。ガキはあっち行った行った」
 ガキだと。でも事実だから言い返せない。これじゃ、駄目だ……。自分は落胆した。幸子の財布の残りも僅かだった。このままじゃ、無一文になっちまう。どうしよう。焦ってみたが、今更ジタバタしてもしょうがない。自分は直ぐに腹を括った。駄目なら駄目で、飢え死にするなら、それで構わない。
 泪橋の交差点を離れ、宛てもなく自分はとぼとぼと山谷の街を歩いた。ひとつの橋の上に、差し掛かった。隅田川に架かる白髭橋だった。
 歩き疲れた自分は、川原にしゃがみ込んだ。そこは通行人の影も少なく、野宿者の姿も見当たらなかった。静かで落ち着けそうな場所だった。良し。今日からここに住もう、金がなくなって餓死するまで。自分はそう決意するや、その日から白髭橋の下の川原で暮らし始めた。
 幸子の財布にはまだ少し小銭が残っていたけれど、自分はもう食べ物を買うのを止め、食べることを諦めた。隅田川の水を飲み、隅田川で洗濯し、隅田川で体を洗った。三日三晩、何も食べずに過ごした。そして限界に達した。もうとても我慢出来ないと思った時、なぜか無性に鯛焼きが食べたくなった。あの林屋の鯛焼き。店のおばさんのやさしそうな笑顔が浮かんだ。
 そうだ。死ぬ前にもう一度だけ、あそこの鯛焼きが食いたい。あそこの鯛焼きを食ってから死のう。かあちゃん、ごめんな。俺もう、ほんとに死にそうだ……。そう思った時、自分の目から涙がぼろぼろ零れ落ちた。
 翌日昼下がり、意を決して林屋を訪ねた。以前買った時と同様、店から顔を出したおばさんに鯛焼きを注文するつもりでいた。ところが自分を見たおばさんの反応が、以前とは違った。
「いらっしゃい。あら、どうしたの、あんた」
 行き成り吃驚した顔で、自分の顔をじっと覗き込んで来た。その顔からは、あのいつものやさしい笑みは消えていた。しかし無理ない反応でもあった。なぜならその時の自分は、食べていないからガイコツ。それに髪も髭も伸び放題で、体は臭く、服も汚れていた。それに未だに半袖シャツのまんま。どう見ても、野宿者にしか見えない。
「ちょっと、中入んなさいよ」
「あ、いいすよ、俺」
 自分の声は蚊の鳴くようなそれで、と言うか声にすらなっていなかった。
「いいから、事情を聴かせて頂戴」
 やばい。そう思った自分は咄嗟に逃げ出そうとした。
「待って」
 しかし店から出て来たおばさんに、素早く腕を握られた。どきどき、どきどきっ……。その時自分は不覚にも足がもつれ、空腹の眩暈と共にふらふらっと、その場に身を崩してしまったのだった。
 気付いたら自分は、畳の上で横になっていた。誰かが見守るように、じっと自分を見詰めていた。男の人、気の良さそうなおじさんだった。
「どうだい、具合は」
 目を開けた自分に、そのおじさんが尋ねた。心配するおじさんの隣りには、あのおばさんがいた。そしておばさんの隣りに、ひとりの少女が座っていた。その少女と目と目が合った時、自分は胸がときめいた。
「ここは、何処ですか」
 少女から目を逸らし、自分は恐る恐るおじさんに尋ねた。
「林屋の、店の奥だよ」
「えっ……。俺、もう帰んなきゃ」
 咄嗟に自分は立ち上がろうとした。しかし足がふらふらだった。
「帰るって、何処へ」
「駄目よ、まだ寝てなきゃ」
 おばさんも話に加わった。自分はよろめき、また倒れた。
「ほら。だから無理しちゃ、駄目だって。栄養失調だってよ、あんた。さっきお医者さんが言ってた。その様子じゃ、ずっとなんにも食べてなかったんでしょ」
 自分はかぶりを振った。
「いいえ、大丈夫です」
 しかし、おばさんもおじさんもかぶりを振って答えた。
「いいから遠慮しないで。もう少しここで、休んでいなさいってば」
「なんか食べた方がいい。玉子、おかゆは出来たのかい」
 たまこ。店のおばさんの名前だった。
「俺、さっき鯛焼き買いに来たんです。お金ならちゃんと持ってますから、鯛焼き下さい」
「おお、鯛焼きか。よし、紀子。店に出してるやつ、ちょっと持っておいで」
「はーい」
 のりこ。それが少女の名だった。
 結局自分は鯛焼きをご馳走になり、その夜は厚意に甘えて、林屋さんの一室で夜を過ごした。本当に久し振りに屋根の下とあったかいふっくらした布団の中で、ぐっすりと眠った。おじさんは林敬七と言い、奥さんが玉子さんで、娘の紀子ちゃんは小学校六年の一人娘だった。
 翌日目を覚ました自分は、こっそり逃げ出そうとした。しかし体が言うことを聞かなかった。まだ足はふらふら、頭もふらふらで、上手く立ち上がれなかった。畜生、さっさと逃げなきゃ。焦っている自分の前に、敬七さんと玉子さんが揃ってやって来た。
「ねえ、きみ。どんな事情があるかは知らないけれど、帰る宛てはあるのかい。もしないようだったら、体が良くなるまで、しばらくここにいたらどうだね」
 えっ。
「でも……」
「ね、そうしたら。そうしなさいよ」
 玉子さんも笑みを浮かべながら、勧めてくれた。
「その代わり、体調が良くなるまでだよ」
「勿論です」
 こうして自分は、しばしの間林屋さんで療養生活を送ることになった。その間林屋の人々は何も問わず、警察にも届けなかった。玉子さんに伸びていた髪をバリカンで剃ってもらい、丸刈りに戻った。季節は秋から冬へと移り変わった。
 年が明け、冬から春へと季節が巡った。自分はすっかり元気を取り戻していた。いつまでも甘えていてはならないと、或る日林屋の人々に礼を述べ、別れを告げた。
「でも昇君、これからどうするつもりだね。このまま野宿生活に戻ったら、また体調を壊すだけだよ」
 昇君。林屋のみんなには、矢吹昇と名乗った。今年で十六歳になる、とも話した。敬七さんの心配に対し、自分は答えに困った。
「良かったら知り合いの手配師に話してみるから、工事現場で働いてみないか」
 えっ。それは願ってもないことだった。
「本当ですか。是非お願いします」

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